著者は、知的障害のある成人に対する性教育を実施しているボランティア団体のメンバーである石黒慶太さん。博士論文が元となり、書籍化に至ったそう。全7章(+序章と終章)のうち、第1章から第5章は具体的なエピソードの記述と、それへの考察が中心となる。
『知的障害のある成人男性の性的欲求と支援 語りと連帯が変えてゆく、まわりの人々との関係』(明石書店)
あまり考えたことのなかったことを考えさせられる内容で、本書が目指していたという「社会的強者とされるマジョリティにとって非常に都合のいいもの」になっている社会規範を読み手に認識させ、省察を迫る本になっていた。その社会規範というのは、シス・ヘテロセクシュアル・健常者・男性の中心主義であり、加えて、婚姻制度内での生殖を「正しい」位置におく限定的なセクシュアリティの称揚も含まれる。
タイトルにある「支援」がどのような意味なのかは第3章で検討されているものの、「知的障害」と「性的欲求」の指示範囲についても、もう少し明確にしてもらえると読みやすかった。
一応、「性的欲求」については、本書で話題にしているのが性的欲求(needs)であって、文化的に記号化された「男らしさ」から構築される性的欲望(desire)とは異なる、と第7章で説明されているが。
知的障害のある成人男性の性をめぐる事象は、他者とともに生を紡いでいくうえで必要であり、社会的に保障していくべき支援の対象としての「欲求」ではなく、記号としての言葉が付与され、快楽を追求するために駆り立てられた活動である「欲望」と(※健常者によって)捉えられてしまっているのだと考えられる。p.329
私の理解だが、「性的欲求」とは何かを詳しくみていけば、もちろん「男性から女性への性加害欲求」といった知的障害のある成人男性に課せられやすい偏見を意味するのではなく、また、単なる射精欲求にも限定されないものである。
例えば、異性との接触禁止を命じられないこと、具体的な説明に基づく性教育を受けられること、性的な情報を調べる際のインターネットリテラシーを身につけられること、結婚や出産などの未来のライフステージを描きやすくすることなども含まれ、それらが健常者から一方的に禁止されたり監視されたりせずに享受できることが「性的欲求」という一語に込められているらしいと把握した。要するに、人権の話なのだ。これらは通常、健常者であれば禁止されない。
極論するならば、施設(社会福祉、障害者福祉)が暗に想定している生活(者)像は、「セクシュアリティ無き生活」――デートをしない、マスターベーションもしない、セックスもしない――ではなかったか。p.123
第2章は、男性の相談支援専門員が、知的障害のある成人男性の射精の相談を、女性である理事長や他の相談支援専門員にできなかった(が、のちに理事長にはできるようになった)話。
「男性は加害性がある」という社会規範をよく理解していればいるほど、相談しにくいというジレンマがある。そこでは、男性の相談支援専門員が、目の前にいる知的障害のある成人男性という当事者の存在以上に、女性かつ理事長という権力者の存在を意識せずにはいられなくなっている様子がうかがえる。
正常だとみなされる健常者男性の性的欲求については、社会が阻むことなく、むしろ「健全だ」と歓迎するくらいなのに、男性の加害性に自覚的になりつつある世の中で、真っ先に“割を食う”のが、逸脱しているとみなされる男性なのだという現実はなかなか辛い。
第5章は、知的障害のある成人男性にサービス提供したことのある、女性セックスワーカーE氏の話。客として来る男性健常者には感じないが、知的障害のある成人男性にはフォビアが生じるとき、その正体は何なのか。
エピソード1では、セックスワークにおける性行為は「セックスワーカーと客で互いに創り出す虚構の空間で行われる行為であり、互いにそのことについて同意しているという前提」(p.237)があるが、それが守られない状況になると、必然的にフォビアが生じるのだろうと分析されており、
著者も「知的障害のある成人男性に対しては、フォビアが生じてしまう」ことに合理性があると納得している。逆にいえば、健常者同士の間で、知的障害のある成人男性が性的サービスを利用する際に「フォビアが生じてしまうことは当然であるという認識」が存在していることを示す事例である。
続くエピソード2では、E氏が自身の認識を改めたきっかけを語る。客である知的障害のある成人男性が「お母さんからお金をもらってきました」と笑顔で言った瞬間、E氏がそれまで持っていた規範意識が崩壊したのだ。
一般的に、知的障害者の母親は、責任もって子を監視することが期待されているが、その母親が「男女間の性行為をめぐる構造に抗ってでも知的障害のある息子の性的欲求に理解を示」していることを感じ取ったために(p.254)、E氏のなかでも従来の枠組みが崩れ、当事者の性的欲求に対して安心したのではないか、と著者は述べる。
さらに、この後のまとめかたが圧巻だった。セックスワーカーも、知的障害のある成人男性も、性的な自由を奪われている存在であり、不可視化されタブー視されている点では同じである。両者が「脱規範・越境的連帯」に向かっていく可能性が、ただの綺麗事ではないかたちで、抑圧に抗するレジスタンスとして立ち上がる。
終章では、この第5章における女性セックスワーカーと知的障害のある成人男性の「連帯」にさらなる考察が必要だと述べつつ(p.388)、かつて女性運動がリプロダクティブ・ライツを確立しようとした際に、障害者団体と「対立」したが、やがて連帯を模索することとなった歴史を思い起こさせる。
第5章を読み終えて、逆パターンではどうなるのか、ふと考えてしまった。
本章の前半では、男性である著者が知的障害のある女性と性行為をする場面を想定してみた際、「自然と拒否感と嫌悪感が生じ」たと認めている。これは、恋愛対象として考えられないからではなく、「知的障害のある女性との性行為は、不道徳なことをしてしまったという烙印を自分自身に押すことになると思えて仕方なかったからだ」という(p.231)。
これはつまり、ただでさえ健常者女性との性行為であっても、男性であるがゆえの優位性や加害性に自覚的になるだろうに、相手が知的障害のある女性だとことさら自分の振る舞いが暴力的に感じられてしまう、ということではないだろうか。
ここに生じる、健常者女性には感じないけれど知的障害のある女性には感じる、過剰な「不道徳なことをしてしまった」という認識も、フォビアになるのだろうか。嫌悪・憎悪=フォビアではないにしても、偏見ではあるだろう。
おそらく本文中の、女性セックスワーカーと知的障害のある成人男性の関係に対する分析から推測するに、著者はこれもまた「知的障害のある女性をことさら無力化し、性的な自己決定をなきものとみなすことも、健常者目線の偏見だ」と主張するのだと思う。けれど、そう言い切るにはかなり葛藤が生じそうでもある。なぜなら自分が健常者であり男性であり、圧倒的に権力を持つ側として把握できてしまうからだ。第7章「ジェンダー秩序における知的障害のある成人男性の性の位置づけ」では、ジェンダー秩序を前提に状況整理しているが、上記のような逆パターンをどう整理するのかも気になった。
これ以降は、本書の内容から外れる。
元はといえば、私がこの本に関心を持った理由は「(健常者の)トランス男性の性的欲求に対する社会的な位置づけを考えるヒントになるのではないか」と考えたからだった。
トランスジェンダーの男性(FtM)は、出生時に女児と判断されたため、成長して男性としての生活を確保できるようになったとしても、他者からは「女性そのもの」または「女性の延長」で捉えられることがある。このときは、女性一般が性的に主体性のない存在とみなされたり、あるいは女性を性的対象とするトランス男性の場合は一時的にであれレズビアンと同じような状態に置かれたりしたうえで、差別・偏見の対象となる。
ただ、ある程度身体的な治療もすると、トランス男性当人の身体感覚としては男性型に近づいていく。発汗作用や肌の色の濃さや体臭や体毛や、おそらく性欲の質感も変わることがある。この時点で、女性差別の範疇でトランス男性の状況を捉えることは、かなり状況を捉え損なっている。
ではどうなるかといえば、とりわけ性的な場面では「身体障害のある男性」と同じになると思う。要するに、ペニスがない。陰茎形成したとしても、勃起や射精ができない。精子はないし、妊娠させる能力も持たない。これは、衣服を着用している日常生活では現れない障害だが、裸の関係性になったとき、相手側に「同情」や「哀れみ」を抱かせてしまいかねない状態だと考えられる。(ただし、おそらく相手に「恐怖」を抱かせる可能性は少ない。なぜなら、"無力で可哀想な身体障害のある男性"の枠に入れられるため。この点は、「性的に加害性がありそう」とみなされやすい知的障害のある成人男性とは状況が異なる。)
こうして、トランス男性がいくら男性同然になり、(狭い意味で)性的欲求をもったとしても、生殖につながる「規律型射精」は存在し得ず、すべてが逸脱としての「目的外射精」(射精ですらないが…)になる。『知的障害のある成人男性の性的欲求と支援』では、以下のように定義される。
生殖に関わる射精のみが正常とされ、それ以外の射精は恥ずかしさの対象となり、罪を感じさせる逸脱として捉えられているということになる。このように生殖に関わることのみを目的とした射精を「規律型射精」と定義すれば、生殖を目的とせず、自制できずに快楽を求めたり、性欲や快楽といったものを想起させたりするような射精を、「目的外射精」と定義できるだろう。p.195-196
したがって、トランス男性の性的欲求は「目的外射精」、あるいはそもそも射精すらできない「正しくない」男性のものと位置づけられるため、主体的に性を語る場が持てない。まずもって人数が少ないとか、トランス男性自身が自分の身体を受け入れられていない事情もある。
あるいは逆に、ちょっぴりジェンダー学やフェミニズムを学んだ女性からすれば、「トランス男性は、性欲の強い“男らしい”男に同化したくて、あえて性的欲求を持て余しているかのようにアピールしたがっている」と解釈されてしまうこともある。そんな健常者×シスジェンダー中心主義に染まっていては、到底話が進まない。
私の問題意識を長々と語ったが、『知的障害のある成人男性の性的欲求と支援』はそうした方面にも示唆を与えてくれる一冊だった。