あきらから(n通目)ニューハーフの誕生

五月あかりと周司あきらという二人のトランスジェンダーが出会って、往復書簡を初めて、もう随分経ちました。2022年春から夏にかけて交わした手紙は、『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』という書籍になっています。

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ちなみに、その後もペースを落としながら往復書簡は続いています。

続編が刊行されるかはわかりませんが(売上次第?)、今回のブログではその一部を公開します。周司あきらから五月あかりさんへの手紙です。

 

五月あかり:男性から女性に同化していったノンバイナリー。Aセクシュアル

周司あきら:女性から男性に同化していったトランス男性(FtM)。パンセクシュアル。

 

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 あかりさん、今週はまた新たなお風呂を開拓して、楽しかったですね。休憩所も充実していましたし、未読だった『島耕作』シリーズの続きを読めてニヤニヤしてしまいました。恋愛に無関心なあなたがいかにもな恋愛の少女漫画を手に取っていて、あまりにもちぐはぐな姿でしたよ。いったい何を「読んで」いるのだろう?

 

 それにしても、初めて顔を合わせた頃よりあなたの体つきは丸くなった気がします。なんというか、女性の身体はメディアで目につくものだとある程度は健康的にみえる肉づきでありながらも痩せているビジュアルばかり歓迎されているわけですが、女湯でよくわかるように、実際の裸体はみんなもっとふっくら丸々していて、あるいは年取った人だと心配なくらいに肉が削げ落ちたりしていて、可視化される表象とは異国の風景ですよね? 老いや油脂があるのがリアルなんです。で、あなたも徐々にそうなっていくのかもしれない。不思議です。そもそもこんなに長生きするつもりも毛頭なかったのに、私たちはまだ歳をとっていくのかな。 

 

 さて、ちょっと面白いエピソードもあります。

 小学生のとき、必修で使う習字道具を買わなければなりませんでした。色は、ピンクっぽい赤か、青の二択です。私はどちらの色も好きではありませんが、まだマシなので青を選びました。ところが、周囲の女子は全員赤で、男子は全員青だったのです。私だけが女子集団のなかで青でした。ちなみに、私たちの学年はその学校のプログラムで習字道具を購入する第一世代だったので、上の子の「お下がり」ではなく、(他校から転校してきた子や、習い事で習字道具をすでに持っている子を除けば)みな自分好みの色を選択できたはずなのです。自由に選択していいはずなのに、この分断は何なんでしょう?

 そういうわけで、妹は私の「お下がり」を使うように親に言われて、「青なんてイヤだ!」って文句を言っていましたよ。悲鳴をあげた、という方が近いかも。この件では私よりも妹の方が、トランス的な経験をしたのかもしれません。異なるジェンダー(を彷彿とさせる色)を強制させられた、という点で。結局妹は青い習字道具を使ったのか、新しく赤を購入したのか、記憶にありませんが、でも赤い習字道具の記憶がいっさいないので、たぶん我慢して青い習字道具を使ったのだと思います。でもこんなこと、私たちのような「姉妹」でなくとも、性別の異なる上のきょうだいがいる生徒は、そのお下がりを使うケースも多いだろうに「他者と違う」とか「好きな色じゃない」というくらいで何を今さら、という感じではあります。

 

 そうそう、トランスジェンダーの生活環境には、そのきょうだいの性別構成がどうなのかによって差があるそうです。そりゃそうですよね。たとえば男きょうだいのいるトランス男性は、阻害感やコンプレックスを抱きやすい一方、男モノの衣服にアクセスしやすいとか。逆に女きょうだいのいるトランス男性は、「同じ女」という扱いのもと姉妹や母親から仲間意識のうちにとどめておかれやすいとか。「足を引っ張るシスター」ですね。私の予想では、妹のいるトランス女性は、すごいきつそうだなと思います。あとから生まれてきた子が、自分にはされなかった「女の子」扱いを存分に受けているのをみたら、嫉妬で狂いそう。

 それに生まれてくる子の性別は、父母の権力関係にも大きな影響をもちます。生まれてきた子が男の子だった場合、父親がヘゲモニーを握りやすく、母親の居場所がなくなりがちです。逆に子が女の子だった場合は母親が活発になります。

 私の家庭のように、女の子が続けて生まれた家庭では、母親が萎縮しすぎることはそんなになかったと言えますし、むしろ父が「男ひとり」として居心地が悪そうにしていることがありました。まあ私は「息子」ではなかったにしろ、例外的に父とRPGやラジコンや虫とりをする機会があったので、そこは父も退屈しなかったのかもしれません。ここだけ読んで私の家庭が円満だったと早とちりしないでほしいのですが、とはいえ性別分けの少ない幼少期は不幸なことばかりでもなかったのかもしれません。

 

 ここからは話を戻し、最近ふたりで触れた話をしましょうか。

ーーこれまで日本で「ニューハーフ」として認知されてきた人たちこそ、「性同一性のないトランスジェンダーの女性」だったのではないか。

 あかりさんのこの予想、とっても面白いです。「性同一性のあるトランス女性」ならば、「性同一性が女性」であり、病理概念としての「性同一性障害」という居場所を見つけることができました。女性として埋没したいんですよね? はい、そうです。と即答できたことでしょう。

 

 一方、「あなたは女性ですか?」と聞かれてもなんとも居心地が悪い、ただし生活実態や実践としてはもはや女性である、といった人たちが、代わりに「ニューハーフ」として、「性同一性が女性」ではないためにまるで「第三の性」であるかのような枠組にはめられていたのではないか。

 ちっとも詳しくないのですが、「女装」コミュニティのなかにも「性同一性のないトランス女性」がいるのだと予想できます。もちろん「ニューハーフ」のなかには、一芸を持って活動したい「性同一性のある」トランス女性もいれば、今でいうノンバイナリーの人も含まれていたでしょう。でも、うまく言語化できないとしても存在していたはずなのです、「性同一性のない」トランス女性たちが。

 

 これまでトランスジェンダー界隈は、性同一性(ジェンダーアイデンティティ)概念に頼りすぎてきました。シスジェンダーに納得させるためには都合がよかったのかもしれません。

 第一に、性同一性が身体と不一致であるといった説明から「性同一性障害」という医療領域と手を結びやすくなりました。病理概念としての立場を確立できれば、存在そのものが無視されたり悪魔化されたりする惨状は、ぐっと避けやすくなったのだと思います。何より、医療を伴って望む性別の実態を手に入れやすくなりました。そうやってジェンダーアイデンティティ・ポリティクスをトランスコミュニティは成り立たせそうと必死になってきました。

 第二に、性同一性は確かにある、でもシスジェンダーはマジョリティだからこそ無自覚なんですよ、とシスジェンダーの反論を塞ぐことが可能になりました。もちろん実際はトランス側の主張がそのまま聞きいられるやさしい世界なんて無いにしても、理論上は「ほら、あなたたちシスジェンダーはマジョリティだからふだん見なくて済むだけで、性同一性というものを持ってるでしょ?」と促せるのです。で、シスジェンダ―のうち「性同一性のある」人たちはそれにすっかり納得してくれます。

 だから性同一性の点からトランスを擁護するよう、トランス側は自身のコミュニティを育ててきたように見受けられます。

 

 ところが、私のようなヤツが存在しました。「性同一性は終生男性で変わりません」なんて言わされても困る、とっとと男性として存在させてくれたらそれで生きられそうだからほっといてくれ!というタイプの、「性同一性のない」トランス男性が。私を「男性」として有徴化しないでほしいし性別なんて不要だが、でもこの性別のある世界ではどう解釈したって「男性」に分類されてしまうようなトランスジェンダー

 

 性同一性がない、でもトランジションが必要だった人たち。もしこれまで生き延びてきたニューハーフの人たちが私に近いマインドだったのだとしたら、なんだか妙に心強い気もします。

 

 あとこれは偏見ですが、ニューハーフの人たちって「誰を好きになるか」という性的指向も同時に語る人が多いのかなと思います(とくに、性的指向が男性に向くケースを想定しています)。逆にいえば、性的指向における違和感を意識することによって、「性同一性のない」説明の難しさを、代用しやすかったのではないか。

 このあたりは、私もそうです。「私は男性です」なんて思ったことがないし、言わされても困る。でも、自分が誰を好きであるかはわかる。それが受け入れられないことも、わかる。なんかちがう。この社会で、私はおかしい? 性同一性は、ない。でも「好き」はわかる。何かがへんだ。この受け皿が、「男が好き」で、かといって「べつに女じゃない」とか冗談言いつつも、どうしても女である、ニューハーフの人たちだったのかも。

 少しだけ先人の遺産を継いだ気分。

あきら

 

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