父親運動とインターセクショナリティ

離婚後の共同親権を可能にする民法などの改正案が参院本会議で審議入りしたとのこと。夫婦がうまくいかない状況で、ただでさえ忙しい家庭裁判所が仲介するメリットがわかりません。歴史的に、男性の父権・夫権(ダブルふけん)は並々ならぬ権力を持ってきましたが、その範疇なのでとても嫌な気持ちです。

 

社会におけるマジョリティ側の性別である男性は、集団としての男性運動を展開することが難しいと言われます。確かに、その通りです。女性運動やフェミニズムが担ってきたほどには、”男性であることによる”生存の危機を感じていないので、男性たちは主体的に変化を起こそうとしません。

 

ただ、今せっかく制度における「父親」の意義や定義を考える機会なのだから、かたちばかりの「父権」だけでなく、もっと現実の問題にアクセスできないものなのか、というもどかしさも感じます。すでに権威を得ているマジョリティ男性の話ばかりではなく、そうではない「父親」の話はどこいった?と。

(もちろん至急の問題として、DV被害を受けてきた女性や子どもたちが離婚後までも共同親権を押し付けられることへ抵抗するのは当たり前ですし、リアルタイムで重要度が高いのでしょう。また、女性からのDVを受けてきた男性にとって、離婚後も関係が続くのはしんどいと思うのですが、推進派はそのような男性の声は聞いたの?)

 

もし父親のための父親による父親運動が行われるのであれば、そこには不正義としか言いようがない女性差別の解消という目標のほか、(男性内の)インターセクショナリティも含まなければダメだと思います。

 

例えば、人種的マイノリティの男性は家族形成を阻害されてきました。黒人家庭における父親不在の問題はまさに男性問題であり、残された女性(黒人女性である妻)にとってもフェミニズム上の大きな課題です。黒人男性が奴隷制・失業・大量投獄などで早死にするケースは改善しなければなりません。(※イヴァン・ジャブロンカ『マチズモの人類史』参照)

 

例えば、障害のある男性が強制的に不妊手術を受けさせられてきたことも、特定の男性が不当に父親で居させられなくなる状況を作り出してきました。

私の視点では、トランス男性も似ています。不妊状態の男性であり、法的に父であることを認められてこなかった男性だからです。2013年に最高裁判決で、戸籍を「男」に変更済みのトランス男性が、法的にも「父」になれることが決まりましたが、それ以前は叶わなかったわけです。(※前田良『パパは女子高生だった  女の子だったパパが最高裁で逆転勝訴してつかんだ家族のカタチ』参照)

 

婚姻制度は、男性の“生殖からの阻害”を助けてあげる制度だといえます。

自分で妊娠・出産を経験しない男性の場合、自分の子は本当に自分の子なのか?といつまで経っても確証らしい確証は得られず、おそらく不安なのでしょう。

それでも、婚姻制度が「あなたはこの子の父親ですよ」と示してくれるので、男性はその身分に安住することができます。だからこそ、集団としての男性は婚姻制度に固執します。ただ、この共同親権推進運動はこだわり方がさすがに気持ち悪く見えます。

 

2024年4月1日にはようやく、女性の離婚後100日間再婚禁止ルールがなくなったようです。それまで残っていたのが信じられないですよね。子どもを妊娠する可能性のないトランス女性やトランス男性に対してもこの無駄なルールが適用されるのか?と気になっていたところなので、なくなったこと自体はよかったですが....。