akira_shuji’s diary

周司あきらのブログ

周司あきらの活動一覧

周司あきらの活動をまとめています。

主に男性学、トランスジェンダー、フェミニズムに関する文章を書いています。
お仕事募集中です。顔出しはしておりません。よろしくお願いします。
連絡先:ichbleibemitdir@gmail.com

 

2026年

1月

【書評】週刊読書人1月9日号『トランスジェンダーの生活史』

2月

【記事】東本願寺出版『同朋(特集:「男性」を生きることのこれから)』2026年2月号 宇治和貴さんとの対談

【講義】国際基督教大学ジェンダー・セクシュアリティ研究へのアプローチ ゲスト講師「男性学入門」

3月

【記事】建築ジャーナル2026年3月号「トランスジェンダーを排除する仕組みを問う」

 

2025年

2月

【書評】共同通信『韓国、男子』

【講演】IMSS(ICU Men's Studies Society)主催「男性学・男性性研究のこれまでとこれから」@国際基督教大学

3月

【トークイベント】男性アクティビストを増やす会「男性としてのむずかしさ、モヤモヤ ジェンダー課題に向き合う言葉を紡ぐ」

5月

【出版】『男性学入門 そもそも男って何だっけ?』(光文社新書)

6月

【解説】『トランスジェンダー男性のきみへ 性別移行した19人からの手紙』(明石書店)

【出版】『ラディカル・マスキュリズム 男とは何か』(大月書店)

【選書、選曲】パレットーク「The Future Is Queer "ストレート"じゃない未来をあなたと想像するためのブックフェア」@本屋B&B

7月

【インタビュー】Voice8月号(PHP)「著者に聞く 『男性学入門 そもそも男って何だっけ?』」

【書評】じんぶん堂「シスターフッドなき男の世界に何をみる? 『トランスジェンダー男性のきみへ

【トークイベント】本屋B&B(配信のみ)杉田俊介さんとの対談 「語られにくいミサンドリー(男性嫌悪)から『男』の話をしよう」『ラディカル・マスキュリズム』(大月書店)『男性学入門』(光文社)W刊行記念

8月

【インタビュー】週刊読書人8月22日号「泥まみれの「男」をすべて被る 『ラディカル・マスキュリズム 男とは何か』刊行を機に」

10月

【書評】北九州市立男女共同参画センタームーブ「ムービング107号」『FtMトランスジェンダーのぼくのことを話そう』

12月

【執筆】日芸映画祭2025パンフレットに寄稿「サラリーマン像の衰退と迷える男たち」

【トークイベント】Tネット主催、虎井まさ衛さんとの対談「「男」になったその先は 『トランスジェンダー男性のきみへ』刊行記念イベント」

 

books.kobunsha.com

www.otsukishoten.co.jp

 

2024年

4月

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.6〜時を超えた バックラッシュ〜

【出版】高井ゆと里さんとの共著『トランスジェンダーQ&A 素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社)

9月

【オーディオブック化】声優:徳留 慎乃佑さんトランスジェンダー入門

10月

【論考】『季刊セクシュアリティ No.118 2024年10月号』「トランスジェンダーと男性が解放される日」

12月

トークイベント】UNITÉ 済東鉄腸さんとの対談「どうすれば男性を「豊か」にできるのか?──自罰的な男性学を超えて」

【書評】すばる1月号 私(たち)は愛されている:李琴峰『シドニーの虹に誘われて』

www.seikyusha.co.jp

 

 

2023年

4月

【出版】五月あかりさんとの共著『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店)

7月

【随想】『すばる8月号 特集 トランスジェンダーの物語 』「家父長の城」

【出版】高井ゆと里さんとの共著『トランスジェンダー入門』(集英社新書)

【トークイベント】代官山蔦屋書店 李琴峰さん、高井ゆと里さんとの鼎談『トランスジェンダー入門』(集英社新書)刊行記念イベント

 8月

【取材】東京新聞「トランスジェンダーの「入門書」が売れている デマが広がる中、著者2人が込めた思いとは」

 【エッセイ、書評】『われらはすでに共にある:反トランス差別ブックレット』(現代書館)

【トークイベント】エトセトラ 松尾亜紀子さん、高井ゆと里さんとの鼎談『トランスジェンダー入門』刊行記念イベント「フェミニズムがフェミニズムであるために」

9月

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.1

【Web記事】集英社新書プラストランスジェンダー入門』刊行記念レポートvol.2~まずは現実を知ることから~

 10月

【Web記事】集英社新書プラストランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.3~いつまで“洗濯機”の話をしているんだ!?~

【Web記事】Wezzy(→Webあかし) 【アーカイブ】高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」出演

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.4~フェミニズムとアイデンティティの政治~

【Web記事】Wezzy(→Webあかし) 【アーカイブ】高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」クロストーク

 11月

【出版】『現代用語の基礎知識2024』(自由国民社)担当ページ:LGBT理解増進法から読み解く、いま必要なこと

【Web記事】Webあかし 書籍でふり返るトランスジェンダー史

【取材】朝日新聞 (らしさって ThinkGender 国際男性デー)あらがうように、「男」追い求めた

【特集編集】エトセトラVOL.10 特集:男性学

 12月

【Web記事】集英社新書プラス 『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.5〜『トランスジェンダー入門』の向こうに〜

【取材】図書新聞第3619号 差別を「真に受けない」ために

【トークイベント】エトセトラ(オンライン開催)小埜功貴さんとの対談 「男」を語ることから「自分」を再出発しよう~第三次メンズリブを発起する~

 

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2022年

1月

【トークイベント】梅田ラテラル 吉野靫さんとの対談「トランス男性とは何者か――Ft系の葛藤、表象を語る」

2月

【トークイベント】Readin' Writin' Bookstore 川口遼さんとの対談「見えない「男性特権」ーートランス男性の視点から」

【トークイベント】本屋B&B 高井ゆと里さんとの対談「ジェンダーアイデンティティが分かりません!!」

3月

【執筆】現代性教育研究ジャーナルNo.132「なぜ「トランスジェンダー男性学」なのか

7月

【執筆】第30回レインボー・リール東京 応援メッセージ

10月

【トークイベント】wezzy 高井ゆと里さんとの対談「抹消された『トランスジェンダー問題』~邦訳出版記念イベント~」

 【Web記事】じんぶん堂 「トランスジェンダー問題」は、シスジェンダー問題である」 

11月

【執筆】エトセトラVOL.8 特集:アイドル、労働、リップ わたしの“アイドル”

12月

【書評】週刊読書人12月2日号『フェミニスト・シティ』

 

2021年

12月

【出版】『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)

 

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『バイ:バイセクシュアル革命のための覚書(Bi: Notes for a Bisexual Revolution)』読書メモ

『バイ:バイセクシュアル革命のための覚書』を読んだ。

Bi: Notes for a Bisexual Revolution

作者のシュリ・アイズナー(Shiri Eisner)さんは、イスラエル在住のフェミニストバイセクシュアルのジェンダークィア

www.hachettebookgroup.com

Seal Pressは、1976年創業のフェミニスト系出版社で、サラ・アーメッド『フェミニスト・キルジョイ』やジュリア・セラーノ『ウィッピング・ガール』もここから出ている。

本書『Bi』も野心があるというべきか、バイセクシュアルに対する偏見は社会の不安を反映しているものなのだから、むしろ覇権を覆すために使ってやろう!という心意気がある。目次からしてすでに楽しい。

【目次】
第1章 バイセクシュアルとは何か?
第2章 モノセクシズムとバイフォビア
第3章 バイセクシュアリティ、特権とパス
第4章 バイセクシュアリティ、フェミニズムと女性
第5章 バイセクシュアリティ、フェミニズムと男性
第6章 バイとトランス
第7章 バイセクシュアリティと人種化
第8章 バイセクシュアリティとGGGG(ゲイ)運動

とくに気になった箇所の紹介と感想を書いていく。

 

第2章について。

モノセクシズムとは、全ての人は一つの性別にしか惹かれないはずだとする前提で機能している社会構造のことをいう。この仕組みのもとでは、異性愛者や同性愛者などモノセクシュアルの人々は優先されるが、そうではない人々は体系的に罰される。

モノセクシュアルが優遇されているってどういうこと?と気になる方には、「モノセクシュアル特権のチェックリスト」が29個並んでいるので、確認してもらうのが早そう。たとえば

1、社会は私の性的アイデンティティが本物であり、私のような人が存在すると保証してくれる。
2、私が性的アイデンティティを他人に明かすと、かれらは私に証明を求めることなく(通常、性的・恋愛的な遍歴を明かすことで)信じてくれる。
(...中略...)
28、私がシスジェンダーである場合には、医療を受けることで健康を危険にさらす可能性は低い。
29、私は自分の特権に気づかないという特権を持っている。

という具合だ。

 

第3章では、異性愛者としての「特権」と「パス」が使い分けられているのがとても良い。

バイセクシュアルへのよくある偏見には、

バイセクシュアルの人は、結局異性と結婚するんでしょう?」
バイセクシュアルの人は、黙っていれば異性愛者として生活できるかもしれないんだから楽でいいじゃん」

といったものがある。しかし、異性愛者として一時的にパスできるからといって、異性愛者としての特権があるとはいえない。この二つは別である。

そもそもバイセクシュアルの人は、バイセクシュアルとして存在できる空間をほとんど持たない。黙っていれば、異性愛者(マジョリティ)とみなされるか、クィア界隈では同性愛者(クィア界隈におけるマジョリティ)とみなされる。だから「マジョリティとして(偽りの姿で)パスできてしまうこと」は、バイセクシュアルにとって切り離せない経験になっている。

ときにバイセクシュアルは「裏切り者」「危険」「反逆者」「ハイブリッド」の比喩で語られるが、Shiri Eisnerさんはそのことを拒むのではなく、むしろ「私はあなた方がいう『危険な』バイセクシュアルですけど何か?」くらいに主張して、バイセクシュアルの政治的基盤をつくり、モノセクシズムを解体しようと提案する。

 

この勢いは、第4章と第5章でも顕在だ(というか本書の本質なのだろう)。家父長制を壊すために、「違和を呼び起こす」バイセクシュアリティは有効だからだ。

 

第4章は、フェミニズムと女性について。

バイセクシュアルのリーディングが可能な)ポルノが、現実のバイセクシュアル女性に与える悪影響について詳しく書かれている。バイ女性は半数以上が、生涯で性暴力被害を受ける。その原因は、バイセクシュアルがどう(誤って)受け入れられてきたかにあるはずで、主流のポルノにヒントがあるというわけだ。

ただ正直、バイセクシュアルのイメージが乏しい日本では、このまま読むことはできない気はした。バイセクシュアル女性と聞いて、「じゃあ誰とでもセックスしてくれるんだ」「女性同士でセックスしているところを、男の僕にも見せてくれ」と思う人が、どれだけいるのだろう?もちろん、そうした有害な人(とくにヘテロ男性)はいるのだが、何もイメージが浮かばない人や、「男性も女性も恋愛対象になるなら、自分に振り向いてくれない可能性が高そう」と自らあきらめる人も出てきそうではある。なので、日本の文脈(あまりにも無視されていること)に注目する必要があると感じた。

また、バイセクシュアルには「誰とでもセックスする」という奔放なイメージがつきまとうが、バイ女性は「男性とセックスするか否かを、自分の意思で決めている」のであって、それは家父長制に対する脅威になり得るのだ、とShiri Eisnerさんは読み替える。これは、「バイセクシュアルは相手を選んでいる(異性愛者や同性愛者と違って「生まれつき」ではない、ご都合主義者だ)」という偏見を、あえてバイセクシュアルの潜在的な力として読み替えてしまっているのであり、この主張にもクィアな転覆力が現れている。

 

第5章は、フェミニズムと男性について。

バイセクシュアル男性は、支配的な男性性を裏切る存在であり、だからこそ日常的に消し去られているという。バイセクシュアルであることは、不安定さ、優柔不断、混乱など女性的な価値観と親和性がある。モノセクシュアル的な「単一性」ではなく、「多重性」がある。男性である人がバイセクシュアリティを備えていることは、だから家父長制の価値観を脅かすものなのだと。

 

第7章 人種化というテーマでは、
アメリカ社会における白人/黒人の議論......ではない話が出てくる。

Shiri Eisnerさんご本人はイスラエルに暮らすユダヤ人に該当するそうだ。とはいえ、ユダヤ人社会の中でもマイノリティであるミズラヒ(≒アラブ系ユダヤ人)であり、マジョリティであるアシュケナジム(≒ドイツや東欧にルーツをもつユダヤ人)から抑圧されてきた立場。

そのため「ユダヤ人かアラブ人か」という二項対立の境界にいるような感覚があるらしい。その意味で、バイセクシュアルの人々が「異性愛か同性愛か」という眼差しを受け、その境界に立ち、境界を揺るがす立場にいたことと、自身が人種化される経験には重なるところがあるのだという。

第3章でも述べられるように、バイセクシュアルは「バイセクシュアルなんて存在しない」と存在を否定されたり、逆に「みんな潜在的バイセクシュアルなのだ」と言われたり、性的マジョリティ(ここではモノセクシュアルの人々)にとって都合の良い扱いをされてきた。人種的マイノリティであることもこれと似ているという。「バイセクシュアルであること」や「ミズラヒであること」が正当なアイデンティティとしてみなされることはなく、つぎはぎのアイデンティティとしてしか存在し得ないからだ。

またバイセクシュアリティと人種化の問題では、そもそもバイセクシュアルという言葉自体が、白人の性科学者によって否定的な意味合いで使われてきたことも忘れてはならない。
植民地主義の文脈では、「原始的」とみなされる人種はバイセクシュアルと結び付けられやすく、他方で「優れた」白人は、好む性別を安定的に一人に決めたうえで関係を構築することができる(=人種的に優れている我々白人はモノセクシュアルである!)、という枠組みが使われる。バイセクシュアルであることは、「一つに決められない未開人種の証」というわけだ。

 

バイセクシュアリティを切り口に、思いのほか壮大な話になったので読んでよかった一冊だった。こういう本がもっと読みたい。

 

akira-shuji.hatenablog.com

2025年ありがとうございました。

2025年がもう終わりそうで、これほど時間の経過が早いということは歳をとったのだなと改めて思います。小学生の時の時間はとてもとても長かったはずなのに、それも思い出せない。

今年は男性学の本を2冊と、邦訳の解説を担当しました。3冊無事に刊行されて(5、6月立て続けに)、肩の荷が降りた感じ。

男性学入門 そもそも男って何だっけ?』は、ネットの論争?では決して顧みられない過去の蓄積を、ぎゅっと濃縮した一冊です。私自身が必要としていた本を具現化できた気がして、とても嬉しいです。迷ったらぜひこれを読んでみてください。

books.kobunsha.com

『ラディカル・マスキュリズム 男とは何か』はミサンドリーの話、男性の権利派(アンチフェミニズムと地続き)の運動など、あまり触れたくないテーマにあえて着目しました。最初の読者となっていただく推薦者の杉田俊介さんと江原由美子さんには、それぞれの視点から良さを引き出していただいて、それも感激しました。

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トランスジェンダー男性のきみへ』は、性別移行後の人生から、過去を振り返った19人の手紙です。書評を書いたり、虎井まさ衛さんとのトークイベントが実現したり。この本の面白さが広がってほしいと切に願います。

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他にも、共同通信で『韓国、男子』の書評を書いて全国の新聞に掲載されたり、国際基督教大学の学生団体IMSSで男性学をテーマに(非対面で)話したり、男性アクティビストを増やす会(現・Himwave)のオンラインイベントで西井開さんらとお話ししたり、パレットーク主催で本屋B&Bの選書フェアに参加させてもらったり、日芸映画祭のパンフレットに文章を寄稿したり、幅が広がった一年でした。

年明けには、他のメディアでもインタビューや書評の掲載が予定されています。そしてそして、パンセクシュアルの本を刊行するつもりですので、そちらもお待ちください.....。関連して、バイセクシュアルの情報も色々調べました。

akira-shuji.hatenablog.com

 

それ以外に関していうと、石破政権から高市政権に交代して最悪を更新しています。スパイ防止法で気に食わない人を取り締まる気なの?核兵器を持つ気なの?それを発言してどうコントロールする気?地方の地震被害は放置なの?新スローガン「ニッポン列島を、強く豊かに。」ってまた沖縄は捨て駒ですか?何もかも酷い。政治のせいで具合が悪くなるのをリアルに感じた。アメリカの愚行が他人事ではない。

1年か2年か、あと少ししたら焚書禁書の可能性も高く、私の本も全部(公には)読めなくされそう。絶対そんなことはさせない。

個人的には性別移行をしたというただそれだけのことで、少し先の未来を考えるようになった(一年後も、きっと生きているだろうと思える)。その邪魔をされたくないという思いが強い。頑張ろう、第三次世界大戦は嫌だ。

 

虎井まさ衛さんと『トランスジェンダー男性のきみへ』刊行記念イベントを開催します。

こんにちは、周司あきらです。

今年6月に明石書店から翻訳出版された『トランスジェンダー男性のきみへ』のトークイベントを、虎井まさ衛さんと行うことになりました。

tnet-japan.com

「男」になったその先は~『トランスジェンダー男性のきみへ』刊行記念イベント~

2025年12月12日(金)19:00-20:30
参加費無料、カンパ歓迎
オンライン配信のみ(一ヶ月アーカイブあり)

虎井さんは特に90年代から2000年代にかけて、日本のFtM(トランス男性)に必要な情報を届けてきました。性同一性障害特例法の制定にも尽力した方です。FtMの自伝やエッセイでは、虎井さんの本を読んで自分もそうかも?と気づいた、という記述も何度か見かけたことがあります。

まさか2025年の暮れに、改めてこのテーマでお話しできるとは思ってもいませんでした。

 

トランスジェンダー男性のきみへ』は原著(Letters For My Brothers)が2010年に出ている本です。すでにインターネット上で様々な情報が飛び交い、手術の情報も手に入りやすくなったタイミングで、それでもあえてトランス男性から過去の自分やトランス男性かもしれない人に向けて伝えたいことを凝縮した一冊であり、中身が濃いです。

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解説を私が担当させていただきました。Kindle版も出てます。

 

本書の特徴は、性別移行を経て7年以上経った人、つまり、いわゆる「性別違和」についてはもう悩むことが減ったであろう人たちが書いているところです。トランスの人々の記述は、課題が山積みなときには多く残されているのですが、性別の問題がある程度片づくと、完全に消息不明の状態になりがちなので(本人にとってはきっと良いことだと思います)、こうして7年以上、人によっては20年よりもっと経ってから、トランス男性に特化した話をするというのはそれ自体凄いことなのだと思います。

 

この本は、おそらく性別移行で経験する出来事の順番に沿って19名の手紙が収録されているので、最初は性別移行の心構えの話から始まり、後半は「男として生きること」を綴った手紙にシフトしていきます。なので、読みたいところから読むのがオススメです。

 

あとは、トランス男性がトランス男性(かもしれない人)に向けて書いているので、詳しくない人に仕方なしに説明するのとは違って、ユーモアがそのまま溢れているところが好きです。例えば......

ぼくの移行において(肉体的にも精神的にも)最もぶざまなピークが訪れたのは、母親の2度目の結婚式に出席しなくてはならなかった時だった。(中略)一言でいえば、ぼくはなんとかサバイバルできた。ぼくが感じのいい15歳の息子だと、母はみんなに褒められたのだ。当時のぼくは27歳だった。でも訂正しようとは思わなかった。だってみんなに「息子」だと思われて安堵したから。(チェイス・ライアン・ジョイント、p.35)

→まあ笑いごとではないのですが、トランス男性が(社会的に)男性になりたての頃、実年齢より随分若く見られることってありますよね。

 

ホルモン治療を始めてしばらくの間、思春期の少年のような行動や感じ方をするのは、いたってノーマルなことだよ。傲慢になりすぎたと思ったら、深呼吸をして、一歩下がってみよう。ホルモン療法をしているトランス男性を別にして、きみの友だちは14歳男子ばかりではないんだ。(リード・ヴァンダーバーグ、p.60)

→最後の一文、笑っちゃいます。でも現実的には、身近な仲間が誰もおらず、思春期を送りたいときに送れなかったのだから、孤独が身にしみるところでもあります。その孤独を癒すためにこそ、この本が書かれたのだとは思いますが。

 

自分の身体について、いったいどれほど幸せになれるのか、それを過去の私への手紙に書こうとしたら、何ページも何ページも、本一冊の半分ほども、使わなくてはならないよ。きみ、ーーそう、過去の私ーーは驚くかもしれない。こんなチビで、ハゲで、毛深くて、白髪で、たった1インチのペニスの男が、みんなに魅力的だと思われていた若い女性でいるときよりも、居心地がいいなんて!でも実際、そうなんだ。(レイヴン・カルデラ、p.140)

→この言い回しも最高。

面白いポイントがいくつもあるので、「わかる」とか「しょうもないよね」と気楽に言い合える相手がいたらいいですよね。と、私はとりあえずこうしてブログに書いておきます。

『平成オトコ塾』読書メモ

澁谷知美さんが2009年に出した『平成オトコ塾 悩める男子のための全6章』を読んだ。

www.chikumashobo.co.jp

タイトル通り、私は想定読者ではない。若い異性愛男性の持っている疑問、あるいはそうした男性が考えているであろう疑問を半ばステレオタイプに当てはめながら「提案」するスタイルの一冊である。なので、自分だったらこういう考え方や答え方はしないな、と思いつつ読み切った。

全6章のテーマはそれぞれ、①男の友情、②「僕がキミを守る」=妻子を「守る」ための仕事、③非モテ、④暴力、⑤包茎手術、⑥性風俗の利用についてだ。

 

特に以下二点は特筆すべき内容だった。

第4章「暴力はなぜ、いけないか」。
本書では、男性から男性に対する暴力が常態化していることを、学校と軍隊にスポットライトを当てて記述している。

男男間暴力は「当たり前」のことすぎて、男男間暴力とは捉えられない傾向にあることを指摘しておきます。どのように捉えられているかというと、第一に、加害者と被害者の性別が取り去られ、たんなる「人と人の間の暴力」として認識されます。第二に、そうでなければ、両者の間に起きたことは「暴力」などではなく「男同士の遊び」、ひどい時には「男同士の固い絆の証」ということにされてしまいます。(p.108)

DVのほとんどを占める「男女間暴力で女性が被害者になるケース」を理解するために、先に「男男間で男性が被害者になるケース」を紹介する書き方は、後者(男男間)に対して不誠実なのではと少し思ったが、とはいえ「男男間で男性が被害者になるケース」に多く紙幅が割かれており、それ自体で読み応えがあった。

 

第6章「性風俗に行ってはダメか」。
この章は、かつて澁谷さん自身も「セックスワークが仕事である」ことに納得できずにいた過去を踏まえながら、性労働性労働者・性労働肯定論への批判の何が問題なのか、丁寧にまとめられている。

買春は本質的に暴力であるわけではなく、暴力は買春から切り離し得る。そして「よい買春」というものを構想し得るーー。考えてみれば当たり前のことなのですが、当時の私はこれらの発言に目を開かされました。(p.192)

他の章が、男性当事者ではない立場から若年男性に向けた「提案」や事実紹介であったとすれば、この6章はセックスワーク(論)を外から見ていた澁谷さんが自ら試行錯誤した跡がみえるので、他の章とは異なる印象を残す。

80年代・90年代の男性運動では、「アジアの買売春に反対する男たちの会」やメンズリブ研究会の機関誌をはじめとして「買春する男は悪い、やめよう」という趣旨の発言が(良心的な)男性側から見られた。しかしその根拠として、「売春は、金をもらって強姦することだからよくない」と言ってしまうのは一面的である。働いている側の意見を無視しているし、また「金を払ったのだから何をしてもいいのだ」という買春男性の開き直りになりかねない危険性がある。

「買春」という語は、主に働き手となる女性側を問題視するための「売春」という語に対応して、主に顧客となる男性側の責任を問うために生まれたフレーズだが、この「買春」という言葉も再考されるべきタイミングではないか、と思っている。「春を買っている、買ったのだから自分の好きにしていい」という思い込みを断ち切るために。

......私は『男性学入門 そもそも男って何だっけ?』でアジ買の活動を紹介しながらも、しかしすでにセックスワーカーフェミニストからの批判も受けているので、ただ「過去の男性運動ではこういう取り組みをしていました」と書くだけでは、そのまま「買春は問題だ」という主張が読者に賛同ありきで受け取られかねないし、それは違うのだが、入門書でどこまで過去の男性運動への批判をするかは迷いどころだった。結局、脚注で『売る売らないはワタシが決める 売春肯定宣言』を紹介するにとどめた。

だからまだ、(私的にも)宿題は残されたままである。男性が男性中心的な資本主義市場に向き合うこと、自身の性欲や欲望に向き合うこと、セックスワークを含む労働全般で労働者の権利を損なわないにはどうあるべきか考えること。その途中で、この澁谷さんの本も役立つに違いない。

FtMのセックス・シチュエーション

トランス男性、FtMスペクトラムにある人々がセックスで置かれる状況について、とりとめもなく書いてみる。ここでいうセックスは、性的行動、性行為、性交渉の意味で用いている。生物学的性別や身体的特徴の意味ではないのであしからず。また、表現をオブラートに包んでいないので注意。

 

トランスジェンダーの存在は過剰に性化されるが、それと同時に、FtMは無性化されてもいる。MtFの場合は性化されてばかりなので、その意味で世間の視線は一貫している。ニューハーフ/シーメールとして性産業のイメージも作られている。

だがFtMの場合は、そもそも語られる機会が少ないか、登場してもとるに足らない(レズビアンの延長線上か、単なる小さな男性)とみなされるため、性的なイメージを付与される機会も少ない。

 

・上記の原因は、MtF精神障害者の男性、FtM身体障害者の男性と重ねられてきたからだと考えられる。過去のMtFスペクトラムの人間への言及は、今からいえば酷いものだった。「男性が異性装をするなんて、狂ってしまった」と言わんばかりだった。この偏見は、現在でもトランス女性差別に引き継がれているだろう。

他方で、FtMへの眼差しはわかりやすくは存在しないのだが、(おおむね性別移行した後に)身近な場面で肌を見せるとしたら、相手の反応は「ペニスの欠陥がある、身体障害者の男性」への眼差しとなる。男性一般に期待されるような性的能力を持たず、若干の哀れみを持って認識される(気がする)。陰茎形成手術をしているか否かにもだいぶ左右されるだろうが、射精・勃起の機能や相手を妊娠させる能力はシス男性と同じようには持たない。このことは、セックスを性器中心で考える多くの人々にとって、「身体障害」なのだ。だから、男性一般に性的な加害性を見出して警戒する人々も、「かわいそうな身体障害者」とみなした相手には、他の男性のような加害性を見出せず戸惑う。どう接するべきかわからないのだ。もちろん服を着ているときは別だが、裸の場面ではそれ相応の相手の眼差しがある。

 

・疑問がある。「性行為には同意したが、ミスジェンダリングされての性行為には同意していなかった」場合、それは性被害に該当するのだろうか。

FtMの場合、男性とセックスすることになって、こちらは男同士のつもりで会ったのに、相手の男性から一方的に女性扱いされたり「FtM」としてやたらと有徴化されたりして、一人の男性として向き合われないパターンは、けっこうあるのではないか。相手がシスジェンダーヘテロ男性のケースはもちろん、ゲイやバイ男性のケースもありうる。このとき、性行為には同意していても、ミスジェンダリングされる(故意に性別を間違われる)ことには同意していないわけで、その上で性行為をすることはFtMの尊厳を削ることになる。相手の目的も、セックスを楽しむことではなく、FtMアイデンティティを毀損したい、自分の支配力を確認したい、といった不純なところにある場合がある。

これについて考えたきっかけは、似たような事例をSNSで見かけたからだ。トランスジェンダーの話ではないが、「性行為には同意したが、その様子を撮影されることには同意していなかった。つまり、性行為そのものは許可したが、撮影されての性行為には同意していなかった場合にどう裁くのか」という話だったと思う。

『男性解放批評序説』読書メモ

杉田俊介さんの『男性解放批評序説 フェミニズムトランスジェンダーメンズリブ』を読んだ。

www.shueisha.co.jp

掲載されている論考には、すでに他の媒体で読んだものがいくつかあった。そのときはなぜ「(ラディカル・)メンズリブ」という言葉が選ばれるのか分かりかねていたが、一冊にまとまったことで「メンズリブ」「男性解放批評」である理由がよく伝わってきた。たしかに杉田さんの取り組みは、集団で語り合うタイプの「メンズリブ」ではないが、ウーマンリブインパクトを引き継ぎつつ自分の内側から変革を目指すメンズリブではあったのだと。

gomennegavan.hatenadiary.com

私の受け取り方ではあるが、杉田さんなりに男性学を「撤退戦」にとどまらず前に進めるための手立てとして、批評という手段で闘っているのだと感じた。

男性解放批評とは、自分らしさ(私語り)を重視するという意味での従来の男性学ではなく、また客観的な実証性を重視する男性性研究でもなく、助力的男性にとどまるのでもない、主体(解釈)と客体(作品)の間の境界的(バウンダリー)で中動態的な決定不能性にとどまり続けること、そしてそのような場所でテクストを読もうとすることである。(p.261)

本書にも掲載されている「批評と男性性ーーー男性解放批評に向けて」という文章のなかで、当時(初出は「文藝」2023年春季号)杉田さんは、男性学が誰を根本的に排除してきたのか批判的に問い直していく「批判的男性学/批判的男性研究」や、「交差的男性学」を自分の立場からは実践できない、と書いていた。
これを読んだとき、私はなんとも淋しいことだなと感じたものだった(......代わりに私ができること・やりたいこととして、『男性学入門 そもそも男って何だっけ?』『ラディカル・マスキュリズム 男とは何か』に問題意識が引き継がれている)。

そのときのどん詰まり状態が、こうして「男性解放批評」の「序説」として前に進んだことがわかるので、『男性解放批評序説』は迫力ある一冊になっている。

 

個別に論考の感想をいうと、

村上春樹ミソジニーを、松浦理英子ミサンドリーをみる目のつけどころが興味深かった。

・「日本的男性性とアパシー」では植民地支配の歴史が顧みられない理由に「日本人男性たちのアパシー(無気力、無関心)と被害者意識」の問題が指摘されているが、この文章は広く読まれるべき。インターセクショナルな視点は、すでに歴史の中にある。

・「私の性被害」では女性からの暴力・加害についてうまく語れない現状について書かれている。

家庭内や恋人同士において、女性が不機嫌になったり怒鳴ったり叩いたり、ということがあると思うけれど、今のところそれは(あまり)「暴力」「DV」ということにはなっていないと思う。(p.49)

実際、ようやく男性の性被害が認識されるようになってきたが、男性が被害者である場合も加害者の性別は男性であることが多い。先日読んだ『沈黙を破る 「男子の性被害」の告発者たち』はよくできた本だったが、紹介される性虐待の事例でいずれも加害者は男性であり、女性が加害者となる場合はまた告発に別種の難しさが生まれる気がした。そこはまだわからないところだ。

akira-shuji.hatenablog.com

 

・もっとも長い論考「トランスジェンダーフェミニズムメンズリブーーー『笙野頼子発禁小説集』に寄せて」は、主に二つのパートから成る。
まず、マジョリティ男性が「男」という当事者的な立場から介入すべきと主張されており、これは私もずっと考えてきたことだったのでこうして書籍化したのは素直に喜ばしい。そもそも、フェミニズムフレーミングを用いないのであれば、平均的に女性より男性の方が性的マイノリティへの抵抗感を持っているのであり、トランスフォビアは「男性の問題」と言っても差し支えないくらいだ。それを、(とくに男性は)「シス女性とトランス女性が対立している」などと呑気に“客観視”している場合ではない。

後半は「シスジェンダーの人々もまたトランス的である」可能性について、パトリック・カリフィア、ショーン・フェイ、ゲイル・サラモン、藤高和輝、森岡正博らの言葉を紹介しながら綴る。そして一周回って、笙野頼子のトランス差別的な主張が皮肉にも、たしかに「メケシ(女性はもう女性ではなくなる)」と言えるのではないかというところまでたどり着く。
......ただ、正直このあたりの主張は私の肌に合わないところがある。ショーン・フェイのノンバイナリーの記述については、『トランスジェンダー問題』訳者(高井ゆと里さん)が脚注(p.361)で「(フェイの議論は)自らの議論に都合よくノンバイナリーの概念と存在を配置しているきらいがある」と丁寧に指摘しており、杉田さんの引用もフェイと同じく、あまり適切ではないと思った。当事者の生活、リアリティよりも理論が先行してしまっている。これは初出の『対抗言論』を読んだときからの印象で、再読しても変わらなかった。

(※ありがたいことに『埋没した世界』も登場するのですが、「トランス女性の五月あかりさん」という記述は正確ではないです。あかりさんはしいて言えば“MtF系ノンバイナリー”なので、一応「MtF」(male to femaleの道筋を辿ってきた)ではあるが「トランス女性」ではない(アイデンティティは女性ではない)のですよね。個人的にこのニュアンスは伝わる人に伝ればいいので、大体伝わらないのは仕方がないのだと理解してます。)

 

男性学」は戦後社会学のイメージが強く、また文芸批評は「男性であること」に無自覚であったそうなので、こうして文学・批評の領域で「男性的主体」が問い直されるのは意義深い。

『入門 男らしさの歴史』読書メモ

弓削尚子さんの『入門 男らしさの歴史』(ちくまプリマー新書)を読んだ。

www.chikumashobo.co.jp


ドイツ・フランス・イギリスを中心に、局所的な事例でありながら「男らしさ」の変遷が的確に見えてくる一冊だった(これが男性史ではなく男性学の場合、戦後日本+アメリカが扱われることが多い)。目次も統一感のないテーマが並んでいるように見えて、しっかり繋がりがある。決闘文化、徴兵制のためのM検、兵役拒否についてページが割かれているのが印象的。

徴兵検査については、菊池邦作の『徴兵忌避の研究』が紹介されている。
「菊池にとって徴兵検査は、受検者を人間扱いせず、いってみれば国家による性暴力のようなものでした。」(p.120)

それと同じようなことが、戦後も入学や就職の場で行われていたというのだからゾッとするし、たとえ女性が進学や就職をできるようになっても、男性で独占してきた(そのなかで通過儀礼と称する男性への暴力もあった)領域で“対等に”過ごすのは無理な話だ。そもそも前提がおかしいのだから。


2016年から17年にかけて邦訳された『男らしさの歴史』全3巻がベースに敷かれてたびたび参照されているが、フランス語原本と邦訳では3巻とも表紙が違うらしく、それぞれなぜその表紙が使われているのか考察されていた。

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以下、書き留めておきたいこと。

日本では1945年3月に本土都市への空襲が始まり、いよいよ危ういと見るや、憲法条文第二十条の「臣民」概念を、これまでの「男性だけ」から「女性も含む」と拡大解釈して6月に編成された「国民義勇戦闘隊」には女性も入隊対象としたという。しかし、女性が実戦に加わる前に、日本は敗戦。「男性史の観点からすると、「国民」概念は男性にとどまり、「戦う性」としての面目をかろうじて保ったことになります。」(p.107)

 

韓国、男子』では、朝鮮半島における男らしさは、科挙で良い成績を出し役職に就くことであって、「戦う男」が望まれたことはなかった、と述べられていた。この『入門 男らしさの歴史』では決闘とその延長である戦争、逆に「戦わない男」が主軸だったが、韓国含む東アジアの男らしさをテーマにしたら随分違った「男らしさの歴史」が見えてくるはずなので、アジア版も読んでみたい。