『トランスジェンダー入門』5刷決定

2023年7月に発売した『トランスジェンダー入門』5刷が決定しました。ありがとうございます。

トランスジェンダー入門/周司 あきら/高井 ゆと里 | 集英社 ― SHUEISHA ―

性同一性障害特例法が施行されてから20年の間に性別を変更したトランスジェンダーの人の数よりも、ずっと多くの人がこの本を手に取ったということですね。

 

じんぶん大賞3位もいただきました。

2024年2月より全国の紀伊國屋書店にてフェア開催されるようです。

store.kinokuniya.co.jp

発売から早くも半年以上経ったわけですが......

本書を読んだトランスの人のなかには、「女らしさや男らしさに苦しんでいるわけではないが周囲に理解されなかったので、性別をめぐる2つの課題の説明が良かった」という方もいるようで、本書が役立って何よりです。

 

もともとトランスジェンダー関連の必須情報をまとめた「雑誌」のような内容を私は目指したかったので、面白さはないにしても、新書という短い媒体の中で目標達成できたのではないかと思っています。

 

もっとトランスジェンダー関連の書籍を読みたいと思った方には、下記の記事がオススメです(私が書きました)。

webmedia.akashi.co.jp

トランス差別の「素朴な疑問」あるある

(初出:2023年3月7日)https://ichbleibemitdir.wixsite.com/trans/post/idea_trans_discrimination

 

面倒くさいからパッと書きました。とりあえず3問だけです。私はトランスの男性に該当する、周司あきらといいます。

 

これはあまり熟考せずに回答した私の考えにすぎないので、当然別の回答をする人もいると思います。そりゃあそうですよね、ある集団全体の意思を反映するなんて不可能ですもの。それに第一、答える必要などないとも思います。テキトーに相手がつくり出した土俵に、なんで上がらなければならないのだ。

 
 

Q、トランス男性は男子トイレや男湯に入りたがってないのに、トランス女性ばかりが女子トイレや女湯に入りたがっていて迷惑ですよね?

 

 

A、はあ。まだトイレと風呂の話がしたいですか?シスジェンダーの人はトイレと風呂の話題が大好きみたいで、呆れてしまいます。

 

トイレと公衆浴場を同列に語るのはあなたが性別分けスペースの運用において、その場で何が優先されているかを知らないからなのかもしれませんね。

 

少しだけ説明します。トイレ一つとっても、それが職場のトイレなのか、だとしたらカミングアウト済みなのか、それとも自分で性別違和に気づいたばかりなのか、あるいはとっくに性別移行を済ませて埋没できている(=トランスジェンダーだと第三者に知られずに生活できている状態)のか、で違いますし、駅のトイレのように「ぱっと見の外見」で判断される場所なのかどうかで「性別運用のされ方」は違います。昔からの友人と一緒にいるときには「ふだんは男子トイレを使っているけれど、今は女子トイレに入らなきゃ」という事態もあり得るのです。場によって、「性別」に重点が置かれる要素は異なるということです。2023年7月に『トランスジェンダー入門』という新書を刊行予定でして、そちらでもう少し詳しくお話ししています(さらっと宣伝)。

 

性別移行を経験したことがないシスジェンダーの場合、あたかも「すべての場は、すべて同じ基準で性別分けがなされている」「たとえば、身体の性別とか」と勘違いしがちですが、そんなにわかりやすく分かれてないのですよね実は。この辺は、私も性別移行をしてみて実感したことです。男女どちらのトイレも利用するとか、女湯も男湯も利用したことあるとか、そういうことが可能な人自体、トランスジェンダーのなかでも数が少ないですし、想像が難しいのは理解しますが、つまりは知らないならトランスジェンダーの人から学ぶしかないんじゃないでしょうか。

 

バイナリーなトランス女性が人口の0.1%、トランス男性が0.2%くらい、出生時と異なる性別に移る少数のノンバイナリーを含めても、うまく自己の性別に合わせた性別スペースを利用できている人はその半分いないくらいでしょうから、めちゃくちゃ数が少ないです。

(参考:トランスジェンダーはどれくらいの割合で存在しますか

 

ちなみに私の場合、「女性」から「男性」への社会的な性別移行を経ていますが、たとえばカラオケ店で女子トイレは広々とした化粧スペースが設けられていたのに、同じ店の男子トイレはずいぶん窮屈で、ただのトイレにジェンダーの差が持ち込まれていてヘンだなぁとか思いました。あと男子トイレってゴミ箱が設置されていないことが多いのですが、この辺もサニタリーボックスがあって当たり前だと認識しているシスの女性は知らないみたいで、驚かれました。ないんですよー。

 

あと、「トランス女性(男性)が女子(男子)トイレ/女(男)湯に入りたがる」という言葉のチョイス、すごく変です。

男湯を利用している近所のおじいちゃんは、「男湯を利用したがっている」「男湯に入りたがっている」のでしょうか。日本語の問題?ただ単に用を足したいだけでしょうから、「その性別の」空間を利用することにこだわっている、という解釈を加えるのは恣意的すぎませんか。

 

まあ、パス度(トランスジェンダーの人が自認する性別に見られる度合い)が高くなって、なに不自由なく性別分けスペースを使いたい、という意味合いで「男湯に入りたいトランス男性」とか「女湯に入りたいトランス女性」という言い方ができなくはないでしょうが、「素朴な疑問」を持ち出す非当事者がそういう当事者の苦悩を慮って言葉を用いているとはまったく思えないので、純粋に押し付けがましい偏見だなーと。

 

昔も今も、性別分けスペースに関しては「利用したい」+「利用できる」人が利用している、という事実は変わりません。「利用したい」とは、トイレなら排尿や排便、公衆浴場なら入浴を求めているということです。「利用できる」とは、トランスジェンダーの人にとってはそれ以外の生活空間においても大体「パス」できていて、問題なく利用できそうだと判断できる状態に至ったことを指すでしょう。シスジェンダーの人ほどのんべんだらりと利用できないのは大きな足枷ですが。ついでトランス以外に関して言えば、誰かの介護や介助がなくとも自分で行動できるとか、その土地のルールや風習(公衆浴場にタトゥーはダメだとか、外国でトイレの使い方を把握しているか等)に即してOKかどうか、という判別(そして排除)がなされています。利用したくても「利用できない」人たちは、トランスジェンダー云々の前からいるのです。もし誰もが使いやすい空間をつくるのなら、「シスジェンダーしかいない」「健常者しかいない」「自国民しかいない」といった前提からスタートするのをやめるべきでしょう。

 
 

Q、トランスジェンダーが気軽に戸籍(や身分証)を変えられるようになったら、トランスジェンダーのフリした犯罪者が出てきてしまうでしょう?

 

 

A、知りません。トランスジェンダーが気軽に(法的な)性別変更できる国・地域なんてありません。医師という第三者の診断抜きで性別変更できる国はすでにあります(セルフIDと呼ばれます)が、そもそも医師は他人なのですから自分の身分証を直すのに許可なんて要らなかったのです。

 

身分証だけ変更したところで、他の生活全般で性別移行できていなければ多大な困難を生みます。何を当たり前のことを、とつっこまれるかもしれませんが、この生活の連続体を意図的にすっ飛ばしている人が多そうなので。ですから、「身分証一つで社会的な混乱が生まれる」という扇動に乗らないでくださいね。身分証一つ変えただけでは困るのは、その「身分証として役立たずな」身分証を持ってしまった当人なのですから。

 

ここでは日本の話をしますが、戸籍を変更するための特例法があることはご存知でしょうか?日本の特例法、国際的にもあり得ないレベルで厳しいんですよ。「結婚してたらダメ」「子どもは持つな、もし子がいるなら成人済みにならなければ子が混乱してしまうからダメ」って、どれだけ右派政権は家族に介入するのでしょう。

 

「性器を切除したなら、本物の『女』『男』として認めてやってもいいぜ」って何様ですか?特定の属性に不妊化要件を課すことは、これまでも有色人種や障害者に対して行なってきた、優生思想に基づく差別です。さっさとなくしましょう。

 
 
 

え?女湯に未手術のトランス女性が入ってきてしまうって?

 

よかったですね、公的な身分の話をしているときに、ごくごくごく一部の公衆浴場の話に全てを矮小化できるほど、あなたがふだん性別の運用方法に無頓着でいられるなんて。羨ましいです。日頃から知り合いの性器を全員分チェックしているわけではないでしょうに。他人の性器や身分証とはまったく無関係に、人間関係の「場」は営まれているのが実情かと思います。そのことをどうか思い出してください。

 

病院で治療が拒否される、就職できない、家が借りられない、強制帰国させられる、留置所や刑務所で見殺しにされる、結婚できない、子どもを育てていても法的な繋がりが確保できない、そうした生活の全般について話しているときに、話を逸らさないでください。

 
 

Q、トランスジェンダーの権利と女性の権利が衝突してしまう!女性の権利を優先するのが、シス男性のやるべき課題でしょう?

 

 

A、落ち着いてください。迷惑です。

 

まず言葉を訂正すると、「トランスジェンダー」の中には「トランスの女性」が含まれており、「女性」の中には「トランスの女性」が含まれています。だから言葉の範囲が被っていて、何を言いたのか伝わってきません。たぶん、後者は「シス女性の権利」と言いたいんでしょうけど(シスとは、トランスではないという意味です)。

 

フェミニズムって知ってますか?トランスジェンダーの求める課題と、シス女性が求める課題って重なり合うことが多くて、ともに協力してきた歴史があります。なんだか昨今の扇動記事だと、まるでトランスの権利とシス女性の権利が衝突していてどちらかしか優先されないかのような間違いが流布していますが、そんなことはありません。「トランス女性は女性ではない!」と主張して女性の輪から弾き出す人は20世紀の運動でも見られたことですが、そうした排除以上に、トランスの女性と共に歩んできたシスの女性フェミニストたちも大勢いました。トランス女性に「性加害者」の偏見を押しつけるあまり、彼女らの性被害が多いのだという事実を忘れないでください。歴史について、『ホワイト・フェミニズムを解体する』という本はオススメです。

 

トランスの男性やノンバイナリーがどこまでフェミニズムの主体となってやっていられるかは議論されることがあり、私の考えでは「トランス男性はフェミニズムにたくさん関与してきたしその成果もあるけれど、男性として生きていく上で男性学メンズリブという方面で考えていく必要もある」と思っています。つまり、フェミニズムだけでは足りない。『トランス男性による トランスジェンダー男性学』という本では、そうした問題意識を述べたつもりです。

 

なので、トランスジェンダーにはトランスジェンダーのポリティクスが、そして男性をやっていくトランス男性には「女性の権利」や「フェミニズム」という範疇では掬いとれない「男性としての」課題が、きっとあるだろうとは理解しています。しかし話を戻すと、それはシス女性の求めていることと衝突や対立しているわけではないので、できることを全部やっていけばいいではありませんか。

 
 

シス男性のやるべきことは、盛りだくさんですね。資本主義におけるマジョリティ男性の優位性を問い、婚姻制度における「夫」や「父」の覇権を疑い、トランスジェンダーを追いやる法制度や医療に対する異議申し立てをし、障害者や妊娠した人や雇用のない人らを排除しない公共空間の形成(『フェミニスト・シティ』はオススメです)、そして一方的に「男性のあるべき姿」を押しつけてきた政府や戦争に対する反対(『厚生省の誕生 医療はいかにファシズムを推進したか』『男性史3 「男らしさ」の現代史』はわかりやすいかも)など、その他諸々やってください。ああ忙しい。

 
 

そして矛盾するようですが、シスの男性が案外とても「脆い」存在だということを自覚して、(誰かを比較したり蹴落としたりしてその成果に依存するのではなく)ありのままの自分を受けとめることも、大事なことだと思います。男性だって脆い作りものにすぎないんですから。

 

くだらない冗談ですが、「ペニスがあるから自分は男」と思っているシスの男性がもしもいるならば、別にそんな性器の凹凸の差違によってあなたの性別や生活が貶められるというわけではないので安心してください、と言いたいです。トランス男性の陰茎形成術だって、元はといえば戦争で性器を負傷したシス男性を助けるための手術が、トランス男性にも転用されてきたものなんですよね。

 

シスの男性のなかにはいつまでも「トランス男性は身体女性だ」と信じたい人もいるみたいですが(それはそれで埋没勢は助かるのかもしれない、みんなが無知でいてくれたら)、実際のところ、そもそも男女の性差はいうほど大きくなくて「性類似」(レイウィン・コンネル)ですし。

 

シス男性とトランス男性の身体って、似通っているんですよ。(このことは性別移行中で、でもまだ納得いくかたちで「パス」できていないトランスの当事者には素直に納得しづらいことだと思います。私もそうでした。でもなぜか、あるとき「男性」とみなされ出して、ホルモン投与半年後にはすっかり「(シスの)男性」さながら埋没してしまったことがあり、「女性の身体」と「男性の身体」には実のところ大差なかったのだと理解しました.....。)

 

シスとトランスの「近さ」女性と男性の「近さ」が受け入れ難いのだとしたら、シス男性の方には「男の身体は強いに違いない、強くあるべきだ」という「男らしさ」にかけられた呪いと一旦向き合ってほしいものです。「男は強くあるべきだ」という洗脳が、女性などマイノリティに対する暴力にも繋がっているのであれば、男性がまず男性自身の思い込みに対峙することも必要なはずだからです。己のミサンドリー(男性嫌悪、男性蔑視)から逃げないで。

 
 

トランスジェンダーの抱えている問題について知りたい人は、『トランスジェンダー問題』を読んでほしいです。大抵のことが書いてあります。

 

もし内容や文量的に困難ならば、100分の1スケールでまとめた記事(「トランスジェンダー問題」はシスジェンダー問題である)も以前掲載してますので、確認していただければ幸いです。

 
 
 
 
 
 

トランス男性が被るトランスミサンドリー

(初出:2023年6月9日)

https://ichbleibemitdir.wixsite.com/trans/post/trans_misandry

 

●パレットークで描かれたエピソードから

 

先日パレットークで、実際にトランス男性(トランスジェンダーの男性、FtMのこと)に起きた体験談がマンガ化されていた。

Instagram前編 https://www.instagram.com/p/CsvzaAlPTrl/?igshid=MzRlODBiNWFlZA==

 

Instagram後編 https://www.instagram.com/p/Cs_HB8hSAdl/?igshid=MzRlODBiNWFlZA==

 

実際にあったことなのだから当然なのだけど、「トランス男性だからこそ」の酷い扱われ方が描かれている。バッシングが酷いのでそこはあまり見ていないし話題にする気もないが、ちょっと人々の反応に面白いものをみた。

 

マンガを読んだ人々の反応は、大きく二つに分かれているらしかった。

 

①「こんなのトランス男性でなくたって味合わされる、女性蔑視だよ。この人物はトランス男性ではなくて、所詮女でしょう。女らしさや女性差別に耐えられないだけだ」

 

②「ほら、男の上司は確かに酷いことを言ったけど、こんなのシス男性だって酷い扱いを普段からされているよ。男扱いされているわけだからいいじゃん。男扱いに耐えられないの?」

 

 

日常的に起こり得るトランス差別を思うとまったく笑い事ではないのだけど、でも人々のこの反応はとても妙だ。おそらく、「トランスジェンダーかつ男性」である人への差別が全く想像ついていないのだろう。

 

①は「シス女性と同じってだけ」とトランス男性への差別を矮小化し、

②は「シス男性と同じってだけ」とトランス男性への差別を矮小化している。

 

いずれにしろ、トランスの男性は想定されていない解釈だ。だから、バグが起きている。①と②で(同一人物が同時にこの二つの反応を取ったのではないにしろ)反応がチグハグだし、想像力の乏しさが滲み出ている。

一方ではトランス男性を「シス女性」の枠に押し込め、他方ではトランス男性を「シス男性」の枠に押し込め、「ほら、シスと同じじゃん」と無理やりシスジェンダー中心主義に押し込めて理解しようとしているから、実態を見損なっているのだ。

 

ここで、トランスミサンドリーという言葉の出番だ。

 

●トランス男性に向けられる偏見を何という?

 

トランス男性がトランス男性であるがゆえに被る偏見を指すために、トランスミサンドリーという言葉を借りる。記憶の限りでは、日本語で聞いたことがない。

 

その用語は英語版Wikipediaで「トランスジェンダーの男性に対する差別」という項目を何気なく見ていたら見つけた。Wikipediaのわりに随分充実した記述があったものだから驚いた(トランス男性の内部事情に詳しくないと書けないような性的シーンでの記述もどこかにあった)。

 

トランス男性に向けられる偏見や嫌悪を、トランスミサンドリー(transmisandry)、またはトランスアンドロフォビア(transandrophobia)、アンチ・トランスマスキュリニティ(antitransmasculinity)などと言い表せるようだ。

 

ミサンドリーは男性嫌悪、男性憎悪の意味で使われ、アンドロフォビアは男性恐怖症の意味で使われるので、それのトランスかつ男性に向けられたバージョンということだ。

 

 

まず、前提として。トランス男性にはさまざまな生活形態の当事者がいる。

 

・すっかり男性側に埋没していて、日常生活では「シス男性」として扱われることがほとんどの人。

 

・あるいは、トランスジェンダーであることは知られていて、男性扱いされている人。こういった場合、露骨に「トランス男性」という別枠扱い(第3の性、的な)されることもあれば、

 

・「戸籍が生活実態とはズレている男性」や「立ちションはできないので、日常的に個室トイレを使う男性」みたいに、性別における扱いが多くのシス男性と変わらないという、トランス男性もいるだろう。こういったケースではむしろ、「外国籍の男性」とか「排泄に障害がある男性」のような、シスートランスという性別の置かれている状況で想定されるよりも、もっと別の条件で見なした方が早い場合も考えられる。

 

・あるいは、カミングアウトしていようがしていなかろうが、すっかり「シス女性」のように扱われているトランス男性もいる。

 

あるトランス男性が完全に「シス女性」としてしか扱われていない場合、そこに男性に向けられる「ミサンドリー」が生じるとは考えにくく、性差別はミソジニーから生じているのだろう。だが少しでも「男性」側に生活を突っ込んでいると、「ミサンドリー」をトランス男性も被ることがある。

 

だからトランス男性には、男性全体に向けられるミサンドリー/アンドロフォビアが降りかかることがある。トランスだと認知されず、単に(シスの)男性だと見なされていたら当然そうだし、トランスだと認知されていても同じく男性全般に向けられるミサンドリーを被ることはある。

 

例えば公共交通機関で「なんとなく男性の隣の席は嫌だなぁ」と避けられるとき、うっすらミサンドリーが発動されていることになるだろう。トランス男性も、シス男性と同じように「なんとなく隣に座りたくない男性」というカテゴリーの一人になることはあるのだ。

 

だが、シスの男性ならば問題にならないが、トランスの男性だからこそ蔑視が向けられる事例もいくつかあるというわけだ。それがトランスミサンドリー

 

●トランス女性に対する「トランスミソジニー

 

話をズラす。

トランスフェミニストのジュリア・セラーノさんは『ウィッピング・ガール』で、「トランスミソジニー」を説明している。ただのミソジニー(女性蔑視、女性嫌悪)に限らず、トランス女性やトランスフェミニンな人物に向けられる、特有の蔑視をそう呼ぶ。

 

例えば、トランス女性にセクハラしておいて、「お前は男だから体を触ってもイイと思った」とのたまうのも、トランスミソジニーだろう。

 

単に「男」扱いしているわけでは決してなく、しかし「シスの女」扱いとも違う、特有の蔑視が入り込んでいる。トランスジェンダーであり、女性である、という二重の状態が作り出している状況なのだ。

 

 

●「シス女性ではないが、シス男性としては認めない」

 

さて、聞き慣れない「トランスミサンドリー」について。

 

パレットークのマンガでいうと、トランス男性に対して、男性の上司が「おまえが男だっていうなら下半身どうにかしろ」といった発言を投げている。これは単にミソジニーでもミサンドリーでもなく、「トランスミサンドリー」なのだ、と考えると何が行われているかわかる。この上司は、シス女性にもシス男性にも、完全に同じようにはこうした言葉を投げ返さないだろう。相手がトランス男性だとわかったからこそ、こんなことを言う。

 

下半身に自分の性別の価値を見出そうとするのは、おおよそ「男の価値観」といえるだろう。なぜか男性は、ハゲと包茎(あるいは童貞)を気にする。身体へのケア意識が薄いにもかかわらず、毛髪とペニスは気にする人が多いらしい。最近の文脈でいえば、「カツラをたくさん売りたい商売人」や「包茎手術で儲けたい医師」の手のひらに転がされているだけだ。まあもっと歴史はたどれるが、毛髪とペニスを気にせざるをえない男性の価値観は社会的に作られたものである。

 

で、その上司はそんな「男の価値観」にのっとって、「ペニスがないくせに、お前は男とはいえないだろう」と冗談を飛ばしているらしい。この様式は、もちろんシス女性を職場でバカにしたいシス男性が用いることもあるだろうけど、それだけでなく、相手がトランスジェンダーであり、決して性別を超えられない、こっち(シス男性)側にこれないのだ、と言い表すために言っているのだろう。

 

相手が単にシス女性だったら他にいかようにも侮蔑の仕方があるので、この「男の価値観」に支配されながらわざわざ言葉を返すあたりに、トランス男性を「完全に女」とは見ていないけれども、「完全に男」とは認めていない感じが伝わってくる。

 

さて、シス男性に対してもペニスを介した侮辱は多発する(らしい)。

 

でも、そこでシス男性が否定されるのは「男のくせに、男らしくない」あるいは、「(例えば巨根で)ナヨナヨした男のくせに、チンコだけは男らしい」とかそういった類のホモソーシャルなやり取りだと思われる。出生時から男性なのだとわかりきっている人物に対しては、「男らしさ」は否定され得るが、「男であること」そのものが脅かされることは基本的にない。「男のくせに」という前提は維持されたまま、「男らしさ」の欠如を咎められているわけだ。

 

※時代や文化圏によっては、人種的マイノリティであることや男性同性愛者であることが、「男であること」そのものへの否定として機能することもあった(ある)かもしれないが。

 

だからトランス男性に対する侮辱は、男性に向けた形態をとることがあっても、「シス男性だったらこんな目に遭わなくて済んだはずなのに」という釈然としない感じを残す。そこにあるのは、これまで意識されてこなかった「トランスミサンドリー」とでも呼べる差別のかたちだからだ。

 

おそらく、トランス男性自身も「一応、シス女性でない扱いをされたってことは、その部分だけは歓迎すべきだろうか......」「でも明らかに、シス男性とは違う冷遇だ、侮蔑されている」と思うかもしれない。もちろん、シス側も「トランスミサンドリー」をなんとなく分かっていて、あえてやっているはずだ。ただし、この屈辱が都合よくシス中心主義で解釈されると、そこで起こっていることは見えてこない。

 

●トランスミサンドリーの事例

 

他に、単に(シスも含めた)男性全般が被るミサンドリーとはちょっと違った、「トランスミサンドリー」で考えられる事例を挙げておく。

 

 

例1:

相続。男性に相続権があります、といっているくせにトランス男性には相続させない、というケース。

 

例2:

映画『ボーイズ・ドント・クライ』で描かれたように、トランス男性だとバレたらシス男性にレイプされて殺されるケース。

多分これは、単に「“女”が男を騙した」から危険な目に遭っているわけではない。「女のくせに」というよりは、どちらかというと「トランスジェンダーという気持ち悪い存在のくせに、俺たちを騙したな!」というような、トランスフォビアが強く混ざっていて、なおかつ「男性」として肩を並べたこともあった奴だからこそ許せない、というような、特有の形態があるのではないか。単に「女への静粛」ではなく、「男同士ならこれくらいの暴力だって受け入れられるだろう」という暴力性が発揮されているとしたら、そこの部分は「ミサンドリー」ないし「規範的でない男への静粛、ホモソーシャルを壊した男への静粛」の側面がありそうだ。これは、トランスミサンドリーっぽい。

 

例3:

トランス男性が妊娠・出産したケース。

これは、「男性のくせに妊娠してしまっている」という特殊な状況がシス側に咎められている。ただ単に「女性が妊娠した」ということへの反応とは違っている。「男であろう存在が、妊娠している」特殊性への抵抗がそこにある。もしかしたら、「妊娠できる男」への恐怖反応なのかもしれない。

男性といえば、従来「妊娠できる能力」を持たなかったし、想像もしてこなかった人が多いだろう。それなのに、トランス男性が妊娠できてしまうというのは、シス男性からしたら、「過剰に能力を獲得している」存在にみえていて、それゆえ受け止められていないから差別するのではないか。これも、トランスミサンドリーっぽい。

 

以上、トランスミサンドリーの紹介でした。

トランス男性が都合よく不可視化され、せいぜいシス女性かシス男性への偏見としてしか解釈されないおかげで、おかしなことになっていると思ったので書いた。

 

 

 

『エトセトラVol.10』で男性学特集をやります。

(初出:2023年8月17日)

https://ichbleibemitdir.wixsite.com/trans/post/etc_danseigaku

 

こんにちは、周司あきらです。

2019年5月にVol.1が発売となったフェミニズム雑誌『エトセトラ』が、次号はVol.10を迎えます。2023年11月発売予定です。特集のテーマは、「男性学」。

 

フェミニズム系の雑誌や論文集で「男らしさ」や「男性学」がメイントピックになることは度々ありましたが、今回私の希望で「男性学」をやらせていただくことになりました。めちゃくちゃ楽しみです。

 

私はこれまで共著を合わせて3冊の本を出させていただいているのですが、全て「トランスジェンダー」とタイトルに掲げられています。『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)、『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店)、『トランスジェンダー入門』(集英社新書)の3冊です。高井ゆと里さんと執筆した『トランスジェンダー入門』は発売一ヶ月ほどで4刷まで決まっています。

 

いや、不思議です。

本気でトランスジェンダーのことを知りたいと思っている人はそんなに多くないと思う、きっと「“マイノリティを差別した自分”になるのは嫌だから、自分のために勉強しておこう」みたいなテンションで、実のところトランスジェンダーそのものには無関心な人が多いだろうとは知っている、いやそれにしても、トランスジェンダーのトピックも抑えておかなきゃっていう初動がけっこう早いみたいで。

 

しかしながら当然、ジェンダーや性差別のことを考えるなら、「男性」についても考える必要があります。というより、そこから逃げてはいけないと思う。これまでの『エトセトラ』の読者には、女性が多いと伺っています。今回は「男性学」特集なので普段より男性読者も増えるかもしれませんしそうなってほしいのですが、「男性」についてスルーしたまま性差別はなくならないでしょう。避けられないテーマだったよなぁ、と。

 

個人的な話をすれば、私は境遇上「トランスジェンダーの男性」に該当します。昔は女の子みたいに生きていたのだけど、人生の途中からすっかり男みたいに生きています。私は、ようやく辿り着いたこの「男」から逃げられないのです。案外「男」にしっくりきてしまっているし、もう他の性別に行き場があるわけでもないのです。だから「男をどうするか・男がどうあるか・男とは何なのか」といったテーマは、個人的にも向き合わざるを得ません。

 

ただいま(2023年8月中旬)、『エトセトラVol.10』準備中です。

 

―――特集編集って、何やるの?

 

さて、まず周司あきらが「特集編集」を担当するらしいけど、それはいったい何をするのか、とお思いの方もいるかもしれません。実際に聞かれたことがあります。説明します。

 

『エトセトラ』という雑誌は、株式会社エトセトラブックスが発行しています。本の編集・発行を担当している会社というだけでなく、東京都の新代田駅には、実店舗である「エトセトラブックス」があります。本屋にはフェミニズムに関連する新刊が揃っており、貴重な古本と出会うこともできます。時々イベントや読書会も開催しているようです。

 

※2023/8/26 『トランスジェンダー入門』(集英社新書)刊行記念イベントも、エトセトラブックスさんで開催します。

https://etcbooks.co.jp/news_magazine/transgendernyumon/

 

 

雑誌の方の『エトセトラ』は、その号ごとに大きなテーマを決めています。

特集部分を責任もって編集する人(いうなればゲスト的な立場の編集者?)がエトセトラブックスの編集者さんたちと共に、編集作業にも加わるかたちとなっています。例えばVol.9ではテーマは「No More女人禁制!」で、特集編集は伊藤春奈さんが担当されました。

最近の『エトセトラ』を見る限りでは、雑誌全体の4分の3くらいがその号の特集内容を扱っていて、残り4分の1くらいが(特集と直接の関係があるわけではない)連載などのページ、という構成です。とはいえ、一冊まるごとフェミニズムについて書かれている本だ、と言えるでしょう。

 

 

―――それで、編集って何やるの?

 

私自身もまだ本作りの途中なので、完成までにどう関わるのか確実なことは分かりません。

ただ、非常にざっくりした説明をすると、次のようなことをしています。

 

・特集のテーマを決める。今回は、「男性学」です!

・「男性学」という大テーマに基づいて、さらに細かいテーマを決める。

・上記テーマで書いてください、と10人〜15人くらいの執筆者に依頼する(エトセトラの編集者さんが連絡してくれています)。書き方は、論考やエッセイや漫画など色々ありますね。

・「はじめに」「おわりに」を書く。

・「編集長フェミ日記」という、1週間程度の日記を書く。

・他にも、読者アンケートや座談会などの内容を考えて、実施しています。

・既刊の『エトセトラ』を読み返したり、男性学に関わる取り組みを引き続き気にしていたりすると、あっという間に月日が経っています。

 

つまりは、原稿依頼に応じてくださった方々、読者アンケートに回答を寄せてくれる方、エトセトラブックスの編集者さん、表紙デザインを担当される方、そして製本し、全国に完成した『エトセトラ』を配本してくださる方々......の協力のもと、1冊が出来上がります。

 

 

※読者アンケートは2023年8月31日まで実施中です。未回答の方は、ぜひご参加ください。あなたの回答を誌面に掲載させていただくかもしれません。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdVqJeFet-p8uUjpSzNHWC0UvGE7C5BS-rEUAZxbUBYapfRWA/viewform

(回答フォームの2つ目の画面では「まず、性別について聞きます」。

 

この性別の聞き方は、『埋没した世界』で私と手紙のやりとりをしていた五月あかりさんの質問形式に則って、質問させていただいています。もしかしたら、この時点でだいぶ回答に詰まる人もいますよね。

特に「⑥ いま社会的に扱われている性別は、どちらですか?扱われる機会が多いと思う方を選択してください」の回答候補が「男性/女性」の二択なのは困ったな!という人もいるかも。男女いずれかの性別で安定的に扱われているわけではない、日常生活で「男か女かわからない性別の人」「性別不詳」として常日ごろ扱われているという人がいたら、答えづらかったのではないかと。この社会は奇妙なことに、見ず知らずの他人でも男女いずれかの性別できっちり扱うことが前提になってしまっているので、おのずと回答も「男性/女性」の二択にならざるを得ないだろうという意味での二択になっているわけですが、この読者アンケートに回答してくださるほど普段から「性・性別」に関心がある人の中には、すでに(自身のアイデンティティーの話ではなく)他者からの扱われ方がノン・バイナリーになっている人もいた気はします。回答しづらくなってしまって申し訳ないです。)

 

以上、『エトセトラVol.10』で周司あきらが男性学特集を担当させていただきます、というお話でした。私は現時点での目次を眺めるだけで興奮しています。面白くなりますよー。

 

 

【追記】2023. 10. 15

エトセトラHPに書誌情報が出ました。

etcbooks.co.jp

『男らしさの歴史2』旅を男のものとする理屈

(初出:2023年1月31日)

https://ichbleibemitdir.wixsite.com/trans/post/histoire_de_la_virilite2

 

藤原書店から出ている邦訳『男らしさの歴史』(アラン・コルバン他)全3巻から、とくに興味深かった章をまとめる。

www.fujiwara-shoten-store.jp

 

●フランスは無理して「男になる」?

私が好きなのは、2巻の「第5部 男らしさを訓練する異国の舞台」ー「第1章 旅の男らしい価値」(p.415-)だ。以下、引用ページはすべて2巻より。

どの巻も600ページ〜800ページほどある充実っぷりで、1巻は古代ギリシア古代ローマから始まるものの、全体としてはフランスの「男らしさ」の変遷がわかる内容になっている。ステレオタイプ的ではあるがフランスっぽくて笑ってしまうのは、フランス人目線でいうとイギリスやアメリカの男は野蛮だし、女も野蛮だという言及がちらっと垣間見えるところだ。仲が悪くて....笑

 

しかも、フランスは自国が「男らしいアピールをしていても、女っぽく見られてしまう」点がコンプレックスなのでは?という疑惑は、1870年に普仏戦争で敗北をしたフランスがその後に植民地支配する際にも見えるので、これまた失笑してしまった。

 

現地人(ここではアラブ人)からすれば、フランスが頑張って擁立した共和国も皇帝の鏡像も、女にみえていた(p.455参照)。フランスからすれば植民地支配するうえで女性と同一視して見下したい現地人からまさに、「フランスって女っぽくね?」と舐められた状態なのだから全くもう!というわけだ。たぶん、フランス以外の植民地支配した欧州は、もっと純粋に「支配する国=男ポジション」「支配される側=女ポジション」を保ちやすかったのだろうに、フランスは無茶したね。

 

植民地支配するには、「現地人」を一方では獣のように扱いながらも、他方では女性化して従属させ、正しい男らしさに向けて導くことが大事になってくる......という。「野蛮人」や「獣」扱いと、女性扱いを同時にするとは一見相反するようだが、男らしさや性的要素が過剰であれ不足・無知であれ、「正しい道から外れている」という点ではいずれにしろ植民地支配する側が教え諭してやらねばならない対象になるのだとか。おっと、これは「第2章 十八世紀終わりから第一次世界大戦までの植民地における男らしさ」(p.447-470)の内容だ。

 

サン=シモン主義者は、人類の統一を、西洋と東洋の(神秘的)結婚になぞらえた。もちろん、西洋を男性化し東洋を女性化する表現体系として。

 

●旅は「男らしさ」の集大成

さて、本題。「第1章 旅の男らしい価値」(p.415-)をまとめる。

 

ヨーロッパ文学の源泉とされる二つの物語『イリアス』は戦いを、『オデュッセイア』は旅をモチーフにしている通り、旅と戦いについては人が最も記述してきた内容といえる。その裏には、男とは自力でたたきあげるものだという考えがうかがえる。

 

旅は、とっても男らしい!『男らしさの歴史1』で見たような多様な「男らしさ」がフルコンボなのがこの「旅」だともいえよう(ブログ内の太字は「男らしさ」にカウントされる要素を示している)。

 

道路は男たちのものだった。

 

一直線な幹線道路は理性の勝利であり、人の意思に自然が屈服することを表していた。

 

鉄道におけるトンネルのメタファーといえば男性器の挿入を彷彿とさせるエロティックなメタファーだし(笑いどころ?ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』ラストシーンはまさにこれ)、洞窟が女性的なのとはちがう。

 

蒸気船ができれば、大海原でさえまっすぐな進路をたどることになった。ああなんて男性的だろう!交通革命では「進歩に向かって進む男たちの英雄的な努力」(p.422)がよくわかる。

 

啓蒙も、大事な男の役割だ。18世紀という時代は、探検家を「啓蒙の男」の主要な人物としえたほどだ(p.425)。

 

やがて旅は学術的な知識を生み出す手段となり、旅行者たるものを男の世界にしっかりと根づかせた。残念ながら今もそうなのだろうが、学術とは男たちの占有物だった。「十九世紀を通じてずっと、科学アカデミー、自然史博物館、地理協会、海軍省、外務省、陸軍省といった男ばかりの諸機関によって大がかりな学術旅行は企画、あるいは促進されたのだった。」(p.426)

 

ロビンソンものをはじめとする冒険小説が読まれるようになっても、登場人物はほぼすべて男性である。年若い少年は、冒険を体験することで「男になる」。

 

「(男の)子どもは「鍛えられ」なくてはならないという軍隊風の別の言葉が、冒険を体験して男らしい教育がなされるという考えをよく表している。」(p.443

 

一方で女は家庭を支えておけばいいので、旅に出られても困るのだ。作者が女性のときでさえ、男ばかりの物語が書かれた。

 

●女性は参画すれど

少しずつだが、女性冒険家の姿も見えるようになってきた。女性による旅行記も出た。ただしそれは、学術的であろうとしていなかった。女性が増えたからといって、旅全体が「男性的」でなくなるわけではなかった。

 

なぜなら、女性には女性ならではの役割があるからだ。女の記録は探検の逸話的な面、風情のある面を担わなければならなかった。結局のところ、女性の探検家や冒険家に残されていたのは、男たちが危険を冒して未知の地域にまず足を踏み入れたときにはまだ調査しきっていなかった調査分野の残余をあさって「女性的な観察眼」(p.437)を発揮することだったり、私的な書簡や個人の日記として「学術的ではない」とみなされる指摘領域だったりした。

 

こうした「女ならではの力を活かす女」は男たちに歓迎されたが、考古学者ジャンヌ・デューラフォワのように「男らしい女」は「真の学問のまがいもの」だと批判を受けた(p.438)。古今東西、男側のみみっちい態度は変わらないらしい。

 

しかしながら、女性が旅をしないと考えるのは間違いだ。

19世紀には女性たちは「ツーリスト」化していた。おそらく女の旅は男たちによって統制されていたのであるが。

 

その意味では、1820年代にはじまった慣行、新婚旅行を挙げよう。女性たちの旅を正当化した一方で、夫がずっといなくてはならないという旅のモデルが重きをなしたのである。その目的はもはや「見知らぬ土地を発見するというよりは、夫の体、ひいては性の快楽を発見する」(p.444)ことになっている。げっ。

 

●「男らしさ」などないのかもしれない

このように、あらゆるところに「男らしさ」を見出し、「男らしさ」は称賛された。それって矛盾してるよね?という諸要素にも、「男らしさ」を見出して称賛するのだから、もはや何をしたいのだかわからない。

 

旅の話に戻ろう。

学術数値での計測により学術探査が男らしさのモデルとされた」(p.431)わけだが、そんなふうに客観的に価値が測れるものを価値基準としてしまうと、ようするにそこで求められているのは器械の正確さであって、人格は不在となる。男らしさの基準が重視されるとき、個々の男は注目されない。むしろ抹消されている。

 

個々の男を抹消することで「男らしさ」が守られるだなんて、なんとも奇妙な話ではないか。日本の『男性史』(確か3)にも、「男に求められているのは経済力であって、「男らしさ」なんて存在しないのでは?」といった視点があった。本当にそうかもしれない。「男らしさ」とは、とんでもなく空っぽなものではないか。

トランスジェンダーを知ろうとしても、『埋没した世界』は誰も逃さない。

(初出:2023年4月15日)

https://ichbleibemitdir.wixsite.com/trans/post/maibotsushita_sekai

 

こんにちは、周司あきらです。

 

五月あかりさんと交わした『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』が、早いところではもう発売しています。ありがたいです!Amazonでは2日後の4/17発売のようです。私(たち)の元を離れて本が独り立ちした今、色々と思うところを書き残しておくことにします。

 
 

●初っ端からトランスジェンダーのペースで話を始めたかった

 

明石書店さんには、書き手である私たちの意向を汲んでたくさん力を尽くしていただきました。

 

その中のひとつ。「はじめに」と「おわりに」は書きたくありません、と私は伝えました(あかりさんは書いてもよかったらしいのですが)。多くの本は、本編とは別に前書きや謝辞が書かれていますよね。でも、今回それを拒みました。

だからリクエストした通り、目次をめくるとすぐに2人の手紙のやりとりが始まるつくりになっています。直感的にそれが良いと思ったのです。

 

元はといえば本書は、どこにも公開する予定のない往復書簡でした。クローズドなネット上のやりとりから始まりました。だから私は五月あかりさんに向けて文章を書いています。五月あかりさんの方を向いて、そして時々は自分の内面を問いただして、基本的にはそのどちらかの方向を見据えながら、言語化を試みました。

 

読み手となるはずの「あなた」は当時存在していなかったので、「あなた」はひょっとしたら置いてきぼりになるかもしれません。こんな個人的な往復書簡に、何の意味があるのだろう?って。

 

しかも。集団としてのトランスジェンダーの権利回復が必要なのはもちろんでしょうが、でも、私自身は「シスジェンダートランスジェンダーではない多数派)に理解してもらおう」とか考えていませんでした。というか今も、そんなこと微塵も思っていません。そういう意味では「トランスジェンダーというマイノリティについて知っておいた方がいいかな......?」といった善意で読んでいただくことを、全力で拒んでいる本なのかもしれません(きっかけは何であれ、本に出会ってもらえることは嬉しいです)。

 

●問われるのは、あなた

 

しかし、だからといってこの本がシスジェンダーの人にとっては意味がない、ということにならないでしょう。なぜなら、何らかの性別を付与されて性別だらけのこの世界を生きている人、ということなら(残念ながら)全員が当事者だからです。おそらく全員が考えざるを得ない話を、この往復書簡ではしているのだと思います。

 

だから私はむしろ、あなたに問いたかった。

 

なぜあなたはシスジェンダーなんですか?性同一性ってあります?あなたが女あるいは男をやれているのはなぜ?身体を変えなければ生きていけないと絶望した日はある?性的指向は性別への影響を及ぼさないものなのでしょうか?

 

なぜあなたはトランスジェンダーなんですか?既存の説明に納得できている?身体を変えようとするとき、そのことは「性別」と常に絡まり合っているとはいえないのでは?トランスジェンダーであることが不可視化されてもなお、あなたはなぜトランスジェンダーだと自覚するのだろう?自身をマジョリティ的だと思うのは、どんなとき?

 

そもそも、シスジェンダートランスジェンダーは遠く離れた存在なのだろうか?

本当に?

 

疑問は溢れ出て止まらなくなる。人々は、いったい何をしているのだろう?トランスジェンダーは「問われるべき存在」に留まらない。道連れになるのは、この「埋没した世界」そのものだ。一旦、浮上させてみたかった。この世界を。この不条理を。なぜ自分だけ逃れていられると知らんぷりしていられるのだろう。聞いてみたかったんだ、ずっと。

 

●個人的なことは政治的なこと、セクシュアリティもそう

 

「性」にまつわる事柄は、個人的な領域に押し留められてきました。でも、こんなにもありふれて、無視できないことになっているのに、素通りすることなんてできないでしょう。.......ラディカル・フェミニズム的な精神は、本書にも引き継がれているのかもしれません。

 

五月あかりさんと、私のセクシュアリティは大きく異なります。一見すると、かすってもいません。Aセクシュアルと、パンセクシュアルと、ポリアモリーと。異性愛以外のあり方は、これまで「トランスジェンダー」の話題と同時に語られることはほとんど見かけませんでしたし、トランス無縁だとしても、日本語で自由に読めるものとしてはやはり少なかったはずです。

 

『埋没した世界』はトランスジェンダーの身体にまつわる話から始まります。第1章はズバリ「身体がはじまる」です(章立ても、私が提案したものをそのまま採用してもらいました)。 やがて、ふたりの生きる物語は変容していきます。性的指向や性のあり方、性欲の点からも語らざるを得なくなりました。トランジション(性別移行)する過程で捨ててきたはずの記憶の箱をひっくり返し、不確定な未来を描き、ままならない現在を書き記していきました。

 

人によっては、「自分の性別そのもの」よりも、「自分が誰(何)に惹かれるのか」という性的指向やそれに類する視点からの方が考えを深めやすいこともあります。それは、ある意味ではあかりさんもそうだし、私もそうだったかもしれません。

 

だって、「自分の性別そのもの」を疑うのはとてつもなく重労働だからです。まずもって揺らがない大前提だと考えられています。人はなぜ「この性別は違う」と気づいたり、「性別を変える」なんて大芸当を成し遂げたりするのでしょう。正直私にもよくわかりませんでした。トランスジェンダーって何?

 

トランスジェンダーの解体は、シスジェンダーの解体でもある

 

わずかなトランスジェンダーの物語では、「(トランス男性ならば)男だから、体も治療して“男”になるのだ」というメッセージが強くて、それに納得できなかった私は「トランスジェンダー」にはなれないのでした。トランスジェンダーの根本から、疑ってみる必要がありました。そんなとき、(結果として)トランス男性に該当する私は、シス男性からヒントを得ることもありました。

 

シスジェンダーの生態を考えてみると、トランスジェンダーについて分かることもありました。ふたりで手紙を交わすなかで、あかりさんがとっても面白いフローチャートを考えてくれました。本書に掲載されているので、ぜひ皆さんにやってみてほしいです。

 

●私の話はもういいのです

 

『埋没した世界』を読み終わったら、読書会とか意見交換会とかが開催されると楽しそうです。他の人が書いた往復書簡も読んでみたいです。もう、私の話はいいのです。我々は「トランスジェンダーというマイノリティのサンプルA、サンプルB」みたいな読まれ方を、望んでいません。観察対象としてのトランスジェンダーを、いつまでもやっている気はありません。個人的には、早く「男の話」をしたいという願望もあります。

 

おまけに、トランスジェンダーの当事者からは顰蹙を買うかもしれません。ちゃんと家もあって、仕事もあって、文章を書く時間がとれて、ある程度恋愛市場にのっていて、なんて恵まれているんだ!と。マジョリティ的で、もはや「トランスジェンダー特有の」悩みをほとんど抱えなくなっていて、ズルいじゃないか、と。本当に辛い状況にときには誰も話を聞いてくれないのだから。そうした(本人なりの)地獄を突破して余裕のある人だけが「トランスジェンダーのサンプル」としてみなされるのは不本意だ、と。そういう意味でも、「もはやマジョリティ的に生きられるトランスジェンダー」の話は、トランスの人たちからも歓迎されないかもしれません。

 

だからこそ、あなたの言葉も聞いてみたい。あなたの正体を、私は知らない。トランスジェンダーかもしれないし、シスジェンダーかもしれない。ある面では、その区別はどうだっていいことだってある。

 

ずっと聞いてみたかった。世界がどうなっているのか。あなたは、性別をどう思う?「好き」って何?この世界を変だと思ったことがある?顕微鏡で覗いてみたい。解像度を上げてみてほしい。これは一体何なんだ?ねえ、答えてよ。答えられないのだとしたら、なぜあなたは今の今までそのまま継続して人生をやってこれたの。それとも、終わらせるのに失敗したから生きている?ねえ、何なんだよこれ。

 

あなたに伴走者になってほしい。そして変革者になってほしい。

 

↓Webあかしで試し読みできます。

webmedia.akashi.co.jp

【新聞比較】経産省女性トイレ使用制限への判決

(初出:2023年7月16日)

https://ichbleibemitdir.wixsite.com/trans/post/newspapers_toilet_judgment

 

2023年7月12日(水)の朝刊を比べてみた。個人の感想です。

朝日新聞東京新聞毎日新聞日本経済新聞、読売新聞、産経新聞の6社。

 

朝日新聞東京新聞は「トランスジェンダー」と表記し、他は「性同一性障害」での報道だった。

 

「戸籍上の性別を変更していない性同一性障害職員の女性トイレ使用を経済産業省が制限した問題で、最高裁の第三小法廷(今崎幸彦裁判長)は7月11日、使用制限は「違法」とする判決を言い渡した。」

判決全文→ https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/191/092191_hanrei.pdf

 
 
 

朝日新聞

 

いつも通りの良記事。31面(社会)では、「自認する性での生活「切実」」との見出しで、原告のコメント、弁護団の評価、そして今崎幸彦裁判長が補足意見の最後に添えた「公共施設のあり方に触れるものではない」という言葉を記載する。この判決によって「『心は女性』と自称する男性が女性トイレに入ってくる」などの言説に繋がりようもないのだ、ということを想起させる。

 

東京新聞

 

頑張っているアライ(支援者)、という印象がある。性自認を尊重しよう、というのが大義であるのはまあ大事なことには違いないのだが、今回の判決では「生活上の性別」がすでに女性である、という面が重視されていたように思う。なので、その辺にいる女性をつまみ出して「お前はこの女性トイレを使うな!」と排除しているようなものなのですよね、今回のケースは。個人の生活に着目されていたのだということを、記事内でもっと伝えてもよかった気はする。

 

毎日新聞

 

判決のなかで述べられていた具体的な話をきちんと盛り込んでいて、よくまとまっている。化粧や服装、更衣室の利用はそもそも認められていたのに、なぜか女性トイレだけ2階以上離れたところを使え、という謎制限をされていたことが読めばわかる。3面では同性婚の訴訟にも触れ、「多数派の原理で負けてしまう少数者を司法として放っておけないという意識が働いているのだろう」と元最高裁判事の千葉勝美弁護士の分析も紹介している。

 

日本経済新聞

 

1面は短くシンプル。34面(社会)では「全裁判官が補足意見」ともう少し詳しく報じる。後半は日本の法整備の不手際について触れているので、判例にまつわる記述は少なめ。

 

【読売新聞】

 

34面に悪意があるとまでは言い切れないが、今崎幸彦裁判長の補足意見から「社会で議論が深まり、合意が得られることに期待を寄せた」で締めて、真横に山崎文夫・平成国際大名誉教授の話「トイレに異性が入ってくることに抵抗感があっても、声を上げられない女性もいるはずだ」を紹介するのは、恣意的では。

 

産経新聞

 

1、2、3、5、22、24面に当該記事がある。1面はなるべくシンプルな報道に努めている印象。24面の、学校のトイレにまつわる紹介と原告会見も、悪くはない。ただし2、3 、5面は言いたい放題である。

 

2面だけでも「定義があいまいで自己申告による性自認と、医学的見地からの性同一性障害は線引きして考えるべき」と無闇に診断を重視する見方を示し、「1審は「違法」、2審は「適法」とした」判決を両論併記のように紹介して、さも2審にも妥当性があったかのように書く。理解増進法を引き合いに出し、「女性として自称する男性が、女性専用スペースに入ることを正当化しかねないという不安は払拭されていない」など、今回の判例では職場内の(原告以外の)女性職員の不安が具体的なものではなく合理性を欠く対応だったと記載されているにも関わらず、そこは無視して架空の不安を煽ることに熱心である。

 

3面では、この裁判とは全く関係ない文脈をねじ込んで、多目的トイレがあるのだから性的マイノリティはそこを使えばよい、と片付けているようでこれも酷い。今ここで出すべき話ではない。

 

5面では、LGBT理解増進会の繋内幸治代表理事とやらの「LGBT全体への反発を生み、社会の分断につながる恐れもある」と懸念を示した、というご意見。「LGBT全体への反発を生み、社会の分断につながる恐れもある」状況を作り出しているのはあなたがただろう。

 

同じ出来事に対する、報道の姿勢に違いがあることがよく分かる。

 
 

……他人に「性別適合手術を受けろ」と平気な顔して言う人たちは、一度実際の手術動画を観てみればいいのではないか。あれを、気軽に他人に強制できるというのは、どんな心持ちなのだろう。いや、心はないのだろう。