性的応対力という尺度【改】

他者を交えた性的関係において、
「性的応対力」と呼べるような尺度が導入されると、もっと話がしやすいのになーと思うことがあります。これは、性愛感情や性的指向や性欲などとは直接的な関係のない、性の話です。これについて書いた前回のブログはとても大雑把でしたから、今回は考え方のベースとなった歴史的背景を踏まえてもう少していねいに書きました。全部で5見出し、6000字強あります。

 

1、性的応対力とは

 

性的応対力

・・・自分が積極的に望むわけではなくとも、相手の求めに応じて、性的サービスを提供する力。その有無や程度。

 

※なお、前回のブログでは「性的サービスを提供できる能力」と記述したのですが、それでは「能力ということは、できた方がいいってこと?」と規範を示しているように読めてしまいそうなので、端的に「力」にしました。その方が「労働力」と地続きであることや、関係調整に動員される「引力」としてもイメージしやすいかと思います。

 

 「性的なこと」と聞くと、途端に神聖視されて、とっつきづらいものとして扱われることがありますが、「性的なこと」といっても一筋縄ではないですよね。

いわゆる性的マイノリティの人たちは、性的マジョリティの押し付ける「性的なこと」にスムーズに馴染めなかったため、独自で概念を組み立ててきたり、社会を変えるための運動をしてきたりしました。

例えばAロマンティックやAセクシュアルのコミュニティ(もとは「Asexual」一択で概念構築されていたようですが、のちに分かれました)では、ざっくり「性的なこと」とされたうちの、自分には「何が無い(=Aである)」のか、現時点では恋愛感情と性愛感情を分ける考え方に落ち着いてきたわけです。

他方で、自分の当たり前だと思う「性的なこと」をあまり疑ってこなかった性的マジョリティの人たちは、恋愛も性愛も尊敬も、積極的に話をしたいかどうかも、家族になりたいかどうかも、どの水準もグチャグチャに混ざったまま、「この人が好き」となったら、「だからセックスしたい」「だから結婚したい」「だからこの人の子どもが欲しい」などと、本来ならひとまとめにする必然性のないような事柄まで、全部一直線に求めていきがちです。

 

 まあこんなふうに、本当なら「性的なこと」を区分して捉えることはできるはずなんですよね。でも、社会はそうしたがらない。今回「性的応対力」と名付けたような、狭間を埋める概念が有効だと感じるのは、そんなふうに社会は「性的なこと」を雑に扱いすぎているし、それによって誰かにとっては都合がいいが他の人にとっては都合が悪い、不平等を正当化するために機能していることを暴く必要があるからです。

 

2、セックスワーク差別

 この性的応対力が求められている典型的な集団に、セックスワーカーの人たちがいると私は考えました。とくに、レズビアン女性だけどヘテロ男性向けの店で働いている人や、ヘテロ男性だけどゲイ向け風俗で働いている人などは、自身の性欲や性的指向や好み・タイプなどとはまったく無関係の客を相手にしているわけなので、この性的応対力の高さが際立つような……。かれらはいったい、相手に何を提供しているのでしょう?顧客に逐一欲望しているわけではないですし、もちろん惚れているわけでもありません。

 

 最初に、言葉の説明をします。セックスワーク(sex work)とは、成人間の同意に基づき、性的なサービスを提供して対価を得ることを指し、例えば店舗をもつソープランドファッションヘルス、店舗をもたないデリバリーヘルス、またストリップやアダルトビデオ出演なども含み、それらが「仕事」であるとの認識に基づいています。セックスワークを労働として認めさせよう、という認識は、これまで一方的に「性的に堕落している」とか「搾取される犠牲者」としてのみ語られてきたセックスワーカーたちが、主体的に活動するなかで獲得されたものです。

 

 しかし、セックスワークは仕事ではない、性的サービスはお金で買えるものじゃない、女性が男性の犠牲になっているのだ、などと考える反対の立場からは、「売買春」の是非や「廃止論」として語られることが多いです。最近でも、「セックスワークは仕事ではない」という建前で、性風俗従事者にコロナ禍の給付金を支給しない、という露骨な差別がありましたよね。つまり「セックスワーク」という言葉自体に、「それは仕事だ」という含意があり、一つの立場表明になっています。

 

 もちろん、この「性的なサービス」も内実は様々です。例えばですが、マッサージ、射精の補助、鞭打ち、裸を見る、近くで話す、抱き合う、といったことまで性的サービスに含まれうるのでしょう。このとき顧客に提供されている個別具体的な「性的なサービス」に共通するのが、まさに性的応対力なのではないでしょうか。

顧客は、ワーカーに応対してほしいから、そこにいるのです。一方のワーカーは、顧客に対して、いちいち性欲や恋愛感情や家族になりたい欲求なんて微塵もなくとも、その場で応対してあげる、ということが期待されています。というより、私的な感情を持ち込むことは全く期待されていない、と考えた方が現実的です。

 

3、フェミニスト・セックス・ウォーズ

 話は打って変わって、1970年代から80年代頃にアメリカで起きた、フェミニスト同士の論争に移ります。このとき題材になったのは、ポルノグラフィでした。ポルノとは、性的興奮を起こさせることを目的とした文章、写真、絵、ビデオなどを指すため、ワーカーが直接関与するセックスワークとは「性的」だとみなされる対象が異なるものの、大まかな議論の道筋がセックスワークに対するものと似ているため参照します。

 

 ポルノをめぐって、フェミニストの間で意見の対立がおきました。

一つ目の立場は、ポルノは家父長制によって作られたものであり、現実の性暴力や虐待を煽る、女性にとって危険なものだという「アンチ・セックス」の立場です。現在の、セックスワーク(の存在)に否定的な「反売買春」や「廃止論」の立場に近いといえます。

もう一つは、女性の自由に必要なのは恥や不名誉ではなく、主体性をもってセックスする女性の権利であって、ポルノは女性が自らの身体を知り、性を解放するための有効な手段だとする「プロ・セックス」の立場でした。ポルノは家父長制の手先なのか、女性の解放となるのか。

 

実際にはそれほどわかりやすい二分法に収まらず、多くのフェミニストは慎重な姿勢をとりましたが、80年代の論争ではおおむねプロ・セックスの見解に集約されました。なぜならフェミニストにとって、夫との許容・強要されたセックスだけでなく、自分で性的主体性をもつことは悲願だったからです。(当時の第二波)フェミニズムは、婚姻制度(国家による管理、家庭第一の価値観)に押し込められず、性的主体性をもつことを大きな目標に据えてきました。

皮肉なことですが、アンチ・セックスの立場で法や警察という男性的な権力を借りて、ポルノを検閲することには限界がありましたし、むしろ国家規制が厳しくなることで真っ先に抑圧されるのは女性や性的マイノリティの人々でした。そう、「女性のために」ポルノを規制しようとしたところ、真っ先に禁じられたのは、レズビアンのエロティックな雑誌や、女性が主体になることもあるSMモノなどであり、主流の男性中心的なポルノは無傷のままだったのです。

ここでセックス・ウォーズのまとめを終えますが、このあたりの話は、フェミニストのなかでもラディカル・フェミニストと呼ばれるような人たちの勢いがあった印象です。

 

 最近の日本では、どちらかというと反セックスワーク(反売買春≒アンチ・セックス)の風潮が強いと感じますが、おそらく「性的応対力でサービスに応じる」という仕事内容が理解されにくいからかと思います。

 

4、「愛の労働」概念

 さて、時を同じくして、マルクス主義フェミニズムの系統ではどんな論争が盛んだったのでしょうか。あ、ちなみにマルフェミとは、男性労働者しか想定してこなかったマルクス主義フェミニズムの視点から読み替え、階級支配と性支配の歴史的形態を解明しようとしたフェミニズムを指しています。最近では、フェミニスト経済学などにこの視点が継がれているようです。

 特筆すべきは、家事労働という「主婦がタダで受け持って当たり前」だと思われていた活動について、「家事労働も仕事だ」「家事労働に賃金を」とアピールしたことです。そのほとんどが女性が担うことになっている活動(家事労働)をガン無視して、男性ばかりで公的な仕事を独占しているのはおかしいし、そうした男性たちの仕事が成り立っているのは、家庭で「男の甘え」を許して、男性を元気な状態に整えて職場に送り出す主婦がいたからです。マルクス主義フェミニズムはそうした現実に目を向けさせるのに貢献しました。

 

 日本では、マルクス主義フェミニズムの提起を先取りしたものとして、早くも1955年〜72年まで三次にわたって「主婦論争」があったようです。それぞれの論点は違いますが、いずれも主婦という立場は肯定的に位置付けられていました。

 しかし、問題が起きます。

イタリアのマルクス主義フェミニストのジョヴァンナ・フランカ・ダラ・コスタが著した『愛の労働』がズバリ示しているように、「主婦の仕事である家事労働には、性的職務が含まれている」という視点が提供されることになったのです。つまり、主婦(妻)に期待されている労働には、家事を行うだけでなく、夫の性的な相手をすることも含まれているのではないかと(だとすると、前述の主婦に肯定的なフェミニストは「性的職務も含めた主婦」をすなおに肯定しにくくなったようです)。「性的なこと」を含まずに単に家事をするだけなら、妻ではなく、娘や外部サービスに委託してもいいわけです。しかし、主婦(妻)が主婦(妻)として家庭内労働をし、稼ぎ手である夫から見返りに扶養を受け取るには、この性的職務が期待されているはずだと、マルクス主義フェミニズムの一部は暴きました(実際にセックスレスが理由で離婚が許可される文化もありますからね)。

impact-shuppankai.com

 

 菊地夏野さんは、2015年の論文「セックス・ワーク概念の理論的射程―――フェミニズム理論における売買春と家事労働」で、セックスワーカーと主婦には共通する基盤があると示します。それは、「直接あるいは間接的に経済的報酬と引き換えに性行為を行うということ」です。単純化すれば、結婚と売買春(セックスワーク)を区別するのは、相手の男性が一人か不特定多数か、という点のみです。私はこの(主婦とセックスワーカーに)共通で課せられたワークこそ、性的応対力を提供することだと思います。

 ただし、もし「セックスワークは労働である」と認めると、妻・主婦の性的職務も労働であり、経済活動であるはず、というところまで行き着いてしまいます。だからこそ、現在の社会経済システムが主婦労働の抑圧のもと成立していることを覆い隠すため、社会は「セックスワークは労働ではない」ことにしておきたいのです(と、菊地さん)。

なお、こうした婚姻制度批判は80年代の価値観がベースになっていますので、再度新しく「婚姻制度とは何か?」を問いたい時分です。

 

5、性的同意?

近年、「性的同意」という言葉を知る人は増えました。同時に、「性的同意」の不完全さについても知っておくべきだよな、と思います。

性的同意とは、性的な行為に対して、お互いの気持ちをしっかり確認しあうことです。断れない状態や立場を利用しての行為は、同意があったとは言えません。また、相手が配偶者や交際相手であっても同じように同意が必要となります。(政府広報オンライン

 性的同意が大事なのは、いうまでもありませんね。

ただ、これが達されないと、すぐさま「性暴力」になるのかというと、規範としてはそうあるべきでしょうが(だから教育現場はきちんと伝えてほしい)、現実は全然そういうことになっていないです。そのことを、私たちは知っているはずです。

 ようするに、性的同意が大事という話だけでは「性的な行為」が交わされる時のシチュエーションをずいぶん捉え損なっています。「お互いの気持ちをしっかり確認しあう」ことが、状況的に十分でなくとも、性的応対力が行使されて、性的なコミュニケーションが交わされる状況はいっぱいあるからです。これは、「(性的同意がなくても)そうすべき」という話では全くなくて、現状で「そうなっている」ことの確認です。

 

事例1、対等ではない間柄で交わされる「同意」

 では、セックスワーカーや主婦における「性的同意」はどうなっているかと気になる人もいるでしょう(私はここを充分に言語化できる段階にありません)が、少なくとも婚姻制度下で生きる主婦の「性的同意」は、一対一の関係でフェアになされるものではないでしょう。夫を至上の存在とみなしがちな社会で、妻が性的職務を断れば経済的基盤まで失うかもしれない、という条件のもとでとられる「性的同意」は、たとえ妻が笑顔で応じていても「正当な」同意とはいえない代物かもしれません。だからこそダラ・コスタ(妹)は、「愛の労働」と呼んでいるのですね。

 

事例2、積極的な同意が介在しないカジュアルなセックスがある

 今度は、ちがった角度から。

 たとえばマッチングアプリで初対面の人と出会って、まったくタイプではないけれど性的なコミュニケーションをしてみて(その人にとって、慣れない人とのお喋りや食事やショッピングよりは有意義な過ごし方なのかもしれません)、「今日はいい時間でしたね」とさくっと解散する、というときに性的応対力が行使されていたと考えられます。性欲や性愛感情はほとんど介在していませんし、おそらく100%の性的同意ともちがうでしょう。あるのは、消極的な同意とか賛同とか「その場のノリ」とか「他の選択肢よりはマシ」程度であり、積極的に望んだとは言い難いです。それでも、相手の誘いに応対してあげたわけですね。このように、別段トラブルもなく「今日はいい時間でしたね」と事が終わるケースは、むしろありふれているくらいだと思います(セックスワークもそう)。

ここからいえるのは、「したい」と「したくない」の間には無限の開きがあって、そのうち「まあ相手が望むなら」程度で了承する性的コミュニケーションも多分にあるということです。これは、他の事例を考えればよくわかるでしょう。たとえば映画に誘われて、全然ノリ気ではないけれどまあ誘いに乗ってやろう、というコミュニケーションはごく普通にあります(あなたは映画の誘いに「応対」したわけです)。

事例1にしろ事例2にしろ、誰かしらの性的応対力が発動されることで(イヴァン・イチイチのいう「シャドウワーク」に近い)、なんだかんだと辻褄があう、性的コミュニケーションが行われているのです。

 

 そもそも、「この性的なコミュニケーションには、100%の同意や欲望の合致がある」と信じるほうがよほど危ないのではないでしょうか。セックス同意書に◯をつけたのだから何してもOK、と思いこむのと変わりません。結婚したのだから二人は愛し合っているはずだし、性行為もしてくれるだろう、と思いこむのと大した違いはありません(その点で、政府主導の「性的同意」啓発は、あるべき家族像における性的同意しか想定しえない、リスキーな啓発かもしれない、とちょっと警戒してしまいます)。

 そうした乱暴な思い込みよりも、(常に)性的応対力が介入している可能性があるのだから、相手はいま自分に性的応対をしてくれているだけで、「私のことを好き」とは限らないのだな、などと一歩引いて権力勾配に自覚的になったほうが安全かと思います。おまけに、どれほど積極的な同意がはじめにあったとしても、ずっと同じエネルギーで他者と他者が向かいあうことなどほとんどありえないのですから、先に離脱した人が相手の期待する「性的コミュニケーション」の範疇まで付き合ってあげる時間も発生しているはずで、そのとき性的応対力が発生しています(無償のケア労働とも言えそうです)。

 

 長くなりましたが、こうした背景から、性的応対力といった尺度で性の話ができるとずいぶんスムーズだろうと考えました。

 

 

参考文献

SWASH編『セックスワークスタディーズ―――当事者視点で考える性と労働』日本評論社、2018年

アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』山田文訳、勁草書房、2023年

ジョヴァンナ・フランカ・ダラ・コスタ『愛の労働』伊田久美子訳、インパクト出版会、1991年

菊地夏野「セックス・ワーク概念の理論的射程―――フェミニズム理論における売買春と家事労働」人間文化研究、2015年