逆を向くフェミニズムと男性学の行方

今後フェミニズム男性学はそれぞれ逆方向へ行くだろうと予想している。

フェミニズムは「個人的なことは政治的なこと」だと性差別構造を明らかにしてきたが、もう第四波の限界も見えてきて、オンラインの政治ではマイノリティ女性への差別に加担しかねないし、プラットフォーム自体も破綻した。だから一旦「個人的なことは個人的なこと」に立ち戻り、「今、ここ」での単発的な運動に代わっていくだろう。


一方で男性学は、それまで人間の代表ヅラをしてきた男性が、一人の男性・自分に戻り、「政治的なことを個人的なことへ」する過程だった。どこかで政治的なことへ向かっていく必要もあったが、その試みはサボってきた(育休や男女共同参画など行政への関与は「政治的」ではあるが、ある程度恵まれた男性が念頭に置かれていたと思う)。

ところが近年では、「男らしさの鎧を脱ごう」では重い腰を上げなかった人までも「男も被害者だ」というアプローチには共感可能になっている気がする。「剥奪感の男性化」が男性集団を政治主体にするキーになるのは、大変に好ましくない。

 


代わりに男性学の方向性として、

①男性の制度的特権を掘り下げ、フェミニズムの分析では足りなかったところまで踏み込み、男性側から(女)性差別解消に働きかけること。

②男性の豊かさを発見し、(女性との比較や女性差別からの恩恵を受けるのではない)ポジティブな方向で男性と向き合うこと、の2点が大事になるだろう。

後者について、済東鉄腸さんは周縁化されてきた男性に着目するよう提案している。例えばが「トランス男性は状況的には“弱者男性”だが、それでも男性であること自体に一定の喜びを感じている」と述べたことや、ライターの木津毅さんがおじさんの身体を愛でている様から、男性を豊かにする方向へ話を広げている。


また、私はそこまで関心を持てずにいるが、③「男性のつらさ」を具体的に解消する、という方向もある程度は支持されるかもしれない。トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』のような。