トーマス・キューネ編『男の歴史』読書メモ

星乃治彦さんがドイツ語から邦訳した『男の歴史 市民社会と<男らしさ>の神話』は、トーマス・キューネの本という印象が強かったですが、全10章をそれぞれ別の人が執筆している一冊でした。10人分の論文(?)を一人で訳すのはなかなか大変そうです。1996年に原著“Männergeschichte-Geschlechtergeschichte(男の歴史―性の歴史)”が刊行され、97年に日本語版が出ました。

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 各章はおおよそ時代順に掲載されており、古い時代から始まって、現代に近づいて終わる構成でした。

序 性の歴史としての男性史 トーマス・キューネ
第1章 家庭のなかでの男らしさ アンネ-シャルロット・トレップ
第2章 愛国的な戦う男らしさ カーレン・ハーゲマン
第3章 兵士、国家公民としての男らしさ ウーテ・フレーフェルト
第4章 スポーツと男らしさの理想 ダニエル・A・マクミラン
第5章 服装からみたブルジョア的男らしさの形成 サビーナ・ブレンドリィ
第6章 決闘、酒、仲間とスイス学生連合 リン・ブラットマン
第7章 「男性同盟(メナーブント)」と政治文化  ニコラウス・ゾンバルト
第8章 「男の哀愁」という麻薬―男性同盟の歌について ユルゲン・ロイレッケ
第9章 戦友意識と男らしさ トーマス・キューネ
第10章 新しい男らしさの登場―マーロン・ブランドプレスリー カスパー・マーゼ

 

印象的だった4章分、ざっくり感想を書いていきます。

 

第1章 家庭のなかでの男らしさ アンネ-シャルロット・トレップ

 1800年頃の、家庭的なブルジョア男性の話。今よりも出産が命がけだった時代であり、「夫たちに求められたのは慎重に、愛情深く妻たちの面倒を見ること」でした。そして子どもが誕生したら、「情緒的な父親」として教育を担います。外での仕事に追われている現代の男性像とは全然違いますね。

 また、当時の独特な生活様式といえば、30歳を過ぎてから父親になっていたことだそうです。

多くの男たちは結婚の時点で、社会的にも職業的にもすでに業績を生み出し危機を脱していて、人格が表れ、内面的安定感を獲得していた。だから、彼らは自分たちのエネルギー、辛抱強さを含めて人格全体を父親であることに集中できたのであった。p.39

 気になって平均寿命のデータをいくつか見たところ、どうやら1800年頃は30代半ばで亡くなる人が多かった模様。とはいえ、5歳ほどの子どもを残して(父)親が不在になるのでは家庭が成り立たないので、他の人に任せていたのでしょうか。この後、産業革命が始まると(ドイツでは1840年代以降、本格化は1870年代)、父親は仕事に縛られるように生活も変わっていきます。

 

第5章 服装からみたブルジョア的男らしさの形成 サビーナ・ブレンドリィ

18世紀の貴族の男性は、「かつら、おしろい、香水、張り骨の入ったスカート、コルセット、そしてヒールの高い靴」など派手なスタイルでしたが、それに対するブルジョワ層は「地味さ、控えめな態度、そして理性的であること」に価値を置いていました。なお、貴族は世襲が主ですが、ブルジョワは経済活動を通して地位や権力を得た層のことです。

やがてブルジョワ的価値観が、貴族社会に取って代わりました。もはや男がコルセットをつけていた時代は忘れ去られ、「性別分業の両極化」が起こり、無分別な「女」のモードと、政治のような分別ある「男」の話題は対極に位置するようになったのです。

結局のところ、男性の優位を作り出すために、男性がみずから「モード」を女性に譲ったわけですが、

男性は動きやすくなると同時に、服装においてはとにかく地味になりました。男性の装飾品はせいぜいシンボル程度に小さくなり、色は黒しか許されず、身分の高い客と日雇い労働者の区別もつかないくらい、男性間は服装の点で「平等」になったといいます。(20世紀に入ると、男女問わずブルジョワは、下層階級と区別するために「ちょっとでも肌を見せることを嫌が」る時期を迎えたようですが。)

 

しかし、明らかに権力を有している男性が、女性よりも地味で目立たない見た目をしている風景は、他の動物に比べると奇妙に見えるものなのかもしれません。服装上の「自己去勢」が男性たちにもたらしたものは、好意的にいえば「落ち着いている」「理性的な」「禁欲的な」男らしさでしたが、男性側の理屈でいえば、だからこそ公的領域は理性的な男が支配しておくべき、ということになるので、モードからの撤退は、より大きな男性支配の形成に役立ちました。

一九世紀中葉以降、男性の服装に、男性の生殖機能を表すようなものは何もなくなった。むしろ、性的な能力を示さないようにすることが、男性の性的特徴に関するブルジョワ的イメージにマッチしていた。女性は生殖だけでもよいとされたが、それに対して男は、まずもって人間であらねばならなかった。p111

 

第7章 「男性同盟(メナーブント)」と政治文化  ニコラウス・ゾンバルト

「男性同盟」は、ドイツ特有の男性の関係を読み解くために重要な概念です。同じくニコラウス・ゾンバルトの『男性同盟と母権制神話――カール・シュミットとドイツの宿命』を熟読したくなります。

 

 トーマス・キューネの「序」では、男性同盟はこう説明されていました。

「男性同盟」自身の理解では、「男性同盟」は家族の補完物ではなく、平等を目指す、青年のエロティックな活力の凝縮物だったし、はたまた、老人や女どもが指揮するようになって「軟弱化した」家父長制家族を超える、カリスマ的男たちの英雄の溜まり場として、共同体のピラミッドの頂点に位置するものであった。p.21

 「男性同盟」は、ホモエロティックな関係を密にはらんでいて、しかもエリート階級の男性限定です。だから一般に理解される「ホモソーシャル」的な男同士の絆とはまた別物だと私は理解しています。そして、家父長制的な近代家族とも違います。女性を従属させるためとはいえ、女性と異性愛的な家族になる必要なんてありませんし、男性同盟にとっては近距離でわかり合える男さえいてくれれば良いのです。

(日本でも「男性同盟」的なもの、あるよなぁ。明治期の男色とか、天皇崇拝する右翼のゲイ男性のポジションは、かなり近い気がする。その男同士の絆には、精神的な崇拝がある。)

星乃治彦著『男たちの帝国――ヴィルヘルム2世からナチスへ』でも、特に第二帝政時代(1871~1918年)のヴィルヘルム2世とその側近の男性同性愛そのもののような関係性にページが割かれていました。

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第10章 新しい男らしさの登場―マーロン・ブランドプレスリー カスパー・マーゼ

ドイツは敗戦し、兵士の男らしさは失墜しました。

その状態が少し落ち着き、新しい男らしさが形作られていった、1950年代以降の話がこの文章です。「きちんとした」兵士の男らしさに至上の価値が付与されていた大戦中とは打って変わって、無頓着な男らしさが開拓されていきました。

だらしなさ、なげやりなどは、もはや、たるんでいるとか、欠陥のあるとか見なされることはなくなり、自信と良く考えているということの追い求めるべき証明になったのであった。p.197

 

無頓着な男らしさといっても色々ありますが、例えばジャズ・ファンは「自分たちのスタイルを、世界に開かれていて、民主的で、兵士的ではなく、反軍国主義的なものとして解釈することに価値をおいて」いました。

また他方で、労働者の「不良たち」は、ジーンズやカウボーイ・スタイルを真似て、映画スターのマーロン・ブロンドのような(美しく、膨らんでいて、張りつめていて、ほとんど女性的な)黒い革ジャンを身に纏いました。

どちらも、規律に従う禁欲的な兵士の男らしさとは一線を画しています。男性がだらしなく、自ら性的なエロスを漂わせ、退廃的にふるまうことは10年前にはありえないことでしたから。

 

ただし、その新しい男らしさというのはかつてのドイツ兵とは確実に違うけれど、逆説的なことに、アメリカ人、とりわけアメリカ兵に当てはまる特徴ではありました。

ドイツ人が驚いたことに、アメリカ軍は全然兵士的に見えない存在でした。アメリカの男たちは、ドイツ人目線では、「良い言い方をすれば柔軟性のある、悪い言い方をすれば無作法な」ふるまいをしていて、例えば足を机の上に置いたり、上官にラフな挨拶をしたりしていました。
(このアメリカ軍に対する見方は、ドイツと日本で似ているように感じます。ドイツではヒトラーを、日本では天皇を崇めており、そうしたトップに従順であらねばならず、決して抗えない状況が戦争を継続させたので…。)

 

アメリカ人歌手の格式ばらない強さや、エルヴィス・ブレスリー風の商品化されたスターが、新たな、ああなりたい理想となったのであった。その理想は、考え抜かれた実行力、金銭的成功、そして容姿における性的魅力と結びついたのであった。p.215

この記述だけみると、早々にメトロセクシュアル的な価値観(≒都会の性意識を重視する男性)が支持されていたのかな?と思いますね。言葉が登場するのはまだ先ですが。

 

あと、執筆者であるカスパー・マーゼは、「「男らしさ」は、「女らしさ」との関連でだけ存在する」(p.209)と述べていて、この断言は意外でした。

というのも、私はフランスの記述メインの『男らしさの歴史』全3巻を読んだときに、「男らしさは歴史上女性の存在をほとんど無視してきて、他の男性たちとの関係のなかで作られてきたのだな」という印象が強かったからです。例えば、父親(の体現する男らしさ)に納得いかない息子の姿を想像するとわかりやすいでしょう。新しい男らしさは、他の男らしさを塗り替えるように誕生するのであって、女らしさとの対比で語れる部分はそう多くないのではないか、と今も思っています。このへんは、意見が分かれそう。

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