『ロスジェネのすべて』読書メモ

雨宮処凛さんが同年代の4名と対談した『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』を読みました。 

ロスジェネのすべて – あけび書房

「ロスジェネ」は、1970年から1984年ごろに生まれ、バブル崩壊後の1993年〜2004年に学校卒業期を迎えて就職活動をおこなった世代。

本書の冒頭は、ロスジェネと右傾化の話が繰り広げられる。雨宮さん自身が右翼団体に入ったエピソードが語られる。

「頑張れば報われる」という神話が崩壊し、「自分はいらない人間なのだ」と実感させられる日々で、何もないからこそ、国家というストーリーに流れ着いたという。ちなみに、左翼団体は専門用語ばかりで何を言っているのか分からなかったとか。

 

そして、90年代に援助交際が話題になるなか、リベラルっぽい人は「女性の自己決定権」のもとで援助交際(未成年買春)を肯定しているように見えたが、右翼は家族を大切に、モラルを尊ぶから反対しているように見えたと。以下、雨宮さん談。

90年代の日本で最もセクハラがなかったのが、私がいた右翼団体なんですよ。で、それ以外もう全部セクハラ。環境セクハラ。たとえ右翼が家父長制みたいなもの丸出しだとしても、同じ「男の傘の下」で「何やらかすか分かんない変態」か「厳格なお父さん」だったら「厳格なお父さん」の方が安全かなっていう直感があったんですよね(p79)

そんな状況なので、現実は全く逆なのに、「慰安婦」が性奴隷だと問題視して怒っているのは右翼なんだろう、と勘違いしていたほどだったという。

 

第2章は、社会学者の貴戸理恵さんとの対談。貴戸さんは、『現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在』でこんな話をしていた。

先行世代の女性学や男性学が扱ってきた『女性/男性であること』の痛みは、まるで贅沢品のようだった。正社員として会社に縛り付けられることさえかなわず、結婚も出産も経験しないまま年齢を重ねていく自分というものは、『型にはまった男性/女性』でさえあれず...

アメリカの男性運動では宗教の差が大きい印象だが、日本の場合は世代間の差がとても大きい。ロスジェネ世代にとって、「仕事に追われる男性」と「仕事と家事と育児に追われる女性」という像は、もはや理想に見えるほど。

 

第3章では、木下光生さんとの対談で、タイトルは「「自己責任」と江戸時代」。そうくるか!と驚きだが、ロスジェネ世代が自己責任論に苦しむようになった、というのはちょいと史実に反している。江戸時代から村社会の自己責任を押し付ける風潮はバリバリあった、という話でした。

 

読者である私が、ここまで長生きするとも思わなかったし、社会情勢に無頓着だったので、たまにはこういう本を読みたいと思った。