『バイ:バイセクシュアル革命のための覚書』を読んだ。
Bi: Notes for a Bisexual Revolution
作者のシュリ・アイズナー(Shiri Eisner)さんは、イスラエル在住のフェミニストでバイセクシュアルのジェンダークィア。
Seal Pressは、1976年創業のフェミニスト系出版社で、サラ・アーメッド『フェミニスト・キルジョイ』やジュリア・セラーノ『ウィッピング・ガール』もここから出ている。
本書『Bi』も野心があるというべきか、バイセクシュアルに対する偏見は社会の不安を反映しているものなのだから、むしろ覇権を覆すために使ってやろう!という心意気がある。目次からしてすでに楽しい。
【目次】
第1章 バイセクシュアルとは何か?
第2章 モノセクシズムとバイフォビア
第3章 バイセクシュアリティ、特権とパス
第4章 バイセクシュアリティ、フェミニズムと女性
第5章 バイセクシュアリティ、フェミニズムと男性
第6章 バイとトランス
第7章 バイセクシュアリティと人種化
第8章 バイセクシュアリティとGGGG(ゲイ)運動
とくに気になった箇所の紹介と感想を書いていく。
第2章について。
モノセクシズムとは、全ての人は一つの性別にしか惹かれないはずだとする前提で機能している社会構造のことをいう。この仕組みのもとでは、異性愛者や同性愛者などモノセクシュアルの人々は優先されるが、そうではない人々は体系的に罰される。
モノセクシュアルが優遇されているってどういうこと?と気になる方には、「モノセクシュアル特権のチェックリスト」が29個並んでいるので、確認してもらうのが早そう。たとえば
1、社会は私の性的アイデンティティが本物であり、私のような人が存在すると保証してくれる。
2、私が性的アイデンティティを他人に明かすと、かれらは私に証明を求めることなく(通常、性的・恋愛的な遍歴を明かすことで)信じてくれる。
(...中略...)
28、私がシスジェンダーである場合には、医療を受けることで健康を危険にさらす可能性は低い。
29、私は自分の特権に気づかないという特権を持っている。
という具合だ。
第3章では、異性愛者としての「特権」と「パス」が使い分けられているのがとても良い。
バイセクシュアルへのよくある偏見には、
「バイセクシュアルの人は、結局異性と結婚するんでしょう?」
「バイセクシュアルの人は、黙っていれば異性愛者として生活できるかもしれないんだから楽でいいじゃん」
といったものがある。しかし、異性愛者として一時的にパスできるからといって、異性愛者としての特権があるとはいえない。この二つは別である。
そもそもバイセクシュアルの人は、バイセクシュアルとして存在できる空間をほとんど持たない。黙っていれば、異性愛者(マジョリティ)とみなされるか、クィア界隈では同性愛者(クィア界隈におけるマジョリティ)とみなされる。だから「マジョリティとして(偽りの姿で)パスできてしまうこと」は、バイセクシュアルにとって切り離せない経験になっている。
ときにバイセクシュアルは「裏切り者」「危険」「反逆者」「ハイブリッド」の比喩で語られるが、Shiri Eisnerさんはそのことを拒むのではなく、むしろ「私はあなた方がいう『危険な』バイセクシュアルですけど何か?」くらいに主張して、バイセクシュアルの政治的基盤をつくり、モノセクシズムを解体しようと提案する。
この勢いは、第4章と第5章でも顕在だ(というか本書の本質なのだろう)。家父長制を壊すために、「違和を呼び起こす」バイセクシュアリティは有効だからだ。
第4章は、フェミニズムと女性について。
(バイセクシュアルのリーディングが可能な)ポルノが、現実のバイセクシュアル女性に与える悪影響について詳しく書かれている。バイ女性は半数以上が、生涯で性暴力被害を受ける。その原因は、バイセクシュアルがどう(誤って)受け入れられてきたかにあるはずで、主流のポルノにヒントがあるというわけだ。
ただ正直、バイセクシュアルのイメージが乏しい日本では、このまま読むことはできない気はした。バイセクシュアル女性と聞いて、「じゃあ誰とでもセックスしてくれるんだ」「女性同士でセックスしているところを、男の僕にも見せてくれ」と思う人が、どれだけいるのだろう?もちろん、そうした有害な人(とくにヘテロ男性)はいるのだが、何もイメージが浮かばない人や、「男性も女性も恋愛対象になるなら、自分に振り向いてくれない可能性が高そう」と自らあきらめる人も出てきそうではある。なので、日本の文脈(あまりにも無視されていること)に注目する必要があると感じた。
また、バイセクシュアルには「誰とでもセックスする」という奔放なイメージがつきまとうが、バイ女性は「男性とセックスするか否かを、自分の意思で決めている」のであって、それは家父長制に対する脅威になり得るのだ、とShiri Eisnerさんは読み替える。これは、「バイセクシュアルは相手を選んでいる(異性愛者や同性愛者と違って「生まれつき」ではない、ご都合主義者だ)」という偏見を、あえてバイセクシュアルの潜在的な力として読み替えてしまっているのであり、この主張にもクィアな転覆力が現れている。
第5章は、フェミニズムと男性について。
バイセクシュアル男性は、支配的な男性性を裏切る存在であり、だからこそ日常的に消し去られているという。バイセクシュアルであることは、不安定さ、優柔不断、混乱など女性的な価値観と親和性がある。モノセクシュアル的な「単一性」ではなく、「多重性」がある。男性である人がバイセクシュアリティを備えていることは、だから家父長制の価値観を脅かすものなのだと。
第7章 人種化というテーマでは、
アメリカ社会における白人/黒人の議論......ではない話が出てくる。
Shiri Eisnerさんご本人はイスラエルに暮らすユダヤ人に該当するそうだ。とはいえ、ユダヤ人社会の中でもマイノリティであるミズラヒ(≒アラブ系ユダヤ人)であり、マジョリティであるアシュケナジム(≒ドイツや東欧にルーツをもつユダヤ人)から抑圧されてきた立場。
そのため「ユダヤ人かアラブ人か」という二項対立の境界にいるような感覚があるらしい。その意味で、バイセクシュアルの人々が「異性愛か同性愛か」という眼差しを受け、その境界に立ち、境界を揺るがす立場にいたことと、自身が人種化される経験には重なるところがあるのだという。
第3章でも述べられるように、バイセクシュアルは「バイセクシュアルなんて存在しない」と存在を否定されたり、逆に「みんな潜在的にバイセクシュアルなのだ」と言われたり、性的マジョリティ(ここではモノセクシュアルの人々)にとって都合の良い扱いをされてきた。人種的マイノリティであることもこれと似ているという。「バイセクシュアルであること」や「ミズラヒであること」が正当なアイデンティティとしてみなされることはなく、つぎはぎのアイデンティティとしてしか存在し得ないからだ。
またバイセクシュアリティと人種化の問題では、そもそもバイセクシュアルという言葉自体が、白人の性科学者によって否定的な意味合いで使われてきたことも忘れてはならない。
植民地主義の文脈では、「原始的」とみなされる人種はバイセクシュアルと結び付けられやすく、他方で「優れた」白人は、好む性別を安定的に一人に決めたうえで関係を構築することができる(=人種的に優れている我々白人はモノセクシュアルである!)、という枠組みが使われる。バイセクシュアルであることは、「一つに決められない未開人種の証」というわけだ。
バイセクシュアリティを切り口に、思いのほか壮大な話になったので読んでよかった一冊だった。こういう本がもっと読みたい。